最近公開された映画『県庁の星』に関連して、公務員パッツシングについて職場の同僚と話していたら、彼が面白いことを言い出した。

 「『公務員パッシング』って、部落差別みたいだな。」
 「あっ、そういえばそうだね。」

 特に江戸時代の部落民と現代の公務員との間には、奇妙な類似点がいくつかある。
 一つめは、政治的に作られた「身分」であること。
 二つめは、江戸時代の部落民と現代の公務員は、「公務」に従事していること。江戸時代、罪人の逮捕と処罰や屎尿処理などの多くの公的な任務は部落民が当たっていた。
 三つめは、両者共に「裕福」であること。明治時代の「解放令」発布以前には、「公務」をほぼ独占していた部落民は、比較的裕福だった。現在の公務員が「裕福」かと言われると、様々な意見があるだろうが、少なくとも現在の公務員パッシングは、彼らの「裕福さ」に向けられている側面があるように思う。

 「だからさ、今も昔も、政治への不満をそらすために、『身分制度』を利用している、という点では同じなんだよね。」
 「だったら、もしかしたらこういうことが起こるかも知れないよ。」

 現在の政府によって、多くの「公務」が民間に委譲されようとしている。それに伴って、公務員の数を削減する動きがある。
 もしもこれが急激に進み、これまで「公務」だったことが誰でも参入することができるようになると、公務員の「利権」が消滅し、公務員は急速に貧しくなる。貧しくなった公務員は、町の一角に集中して建てられている公務員住宅から出て行くことができず、そこには「旧公務員」が住む部落ができる。

 「あと100年もしたら、『あそこに住んでいる連中は、「談合」や「天下り」という悪いことをしてきた「公務員」の子孫なんだぜ』って言われてるかもしれないよ。」
 
 「それが、「談合」と「天下り」が外れて単に「悪いことをしてきた公務員の子孫」ってことになると、まさに部落差別そのものだね。笑えないジョークだよ。」

 100年後の差別の芽を摘み取るために、やはり公務員は努力しなければいけないのだろう。