理性的、または理論的に人を好きになったり嫌いになったりする、これは少し奇妙な言い回しのように思えます。

 そもそも、「理性」や「理論」は、人間の感情を極力排して臨むことを求めているのです。
 たとえばもし仮に、「私がこの人の事を好きになるのに十分な理由がある」と理性が判断したとして、感情がその通りになるとは限りません。もともと感情を排して出された結果に、感情が従う義理はないからです。

 ただ、理性は感情に対して、「道徳」という行動規範を突きつけます。これにより我々は、感情の方を押さえて、より社会的(理性的)な行動をとることが求められます。

 この理性と感情のねじれが引き起こす人間関係は、大変に味わい深い。
 そのよい例が「好敵手(ライバル)」の存在でしょう。

 説明は不用かとも思いますが、理性的、理論的には自分自身の「敵」であるはずの人物同士が、互いを認め、尊重し、敬意を払い、時には友情を深める。
 もちろん、自分の「敵」が全て「好敵手」になり得るわけではなく、やはりそこには、理論を越えた要素があると考えられます。

 「好敵手」とは逆のパターンも考えられます。
 理性的に考えれば自分にとって有用である人、自分の身方である人であっても、「好き」になれない。
 問題は、このパターンには、「道徳観念」の方から「感情」に向けてクレームがつきますので、それが強いと、自己嫌悪に陥ったりするときがあるようです。

 僕に言わせれば、理性的、理論的な「答え」に即して感情が変化するなんてことは信じられませんし、もしそうであるなら、現在のコンピュータやロボットは立派に感情を持ち合わせていることになります。

 「好き」や「嫌い」は、実に不可解な人間的な感情です。
 大切なことは、「嫌い」を無理に「好き」にしようというのではなく、「嫌い」であっても相手を尊重する態度を身につける、ということだと思います。