趙州様に、新入りの坊主が言った。
 
 「私は入門したばかりです。どうぞおさしずを。」

 趙州、「お粥(朝食)は食べたか?」

 「はい、食べました。」

 「それなら、鉢を洗いなさい。」

 その坊主は気付いた。


 【無門の解説】

 趙州はパックリと口を開いて、肝心を見せている。しかしこの坊主、本当に悟ったのかな。もしも聞き分けなかったら、瓶も鐘も同じだ。



 【松川亜人の雑感】

 今でこそ、禅というものが、日常の『自然』、すなわち無理のない様を基本としているらしい、ということを何となく感じています。
 しかし、一般に「座禅」に代表されるような禅のイメージは、何となく浮世離れした、現世と切り離された特別の空間のようなものではないでしょうか。

 そういう先入観があると、この公案は、何とも馬鹿馬鹿しいものに聞こえます。

 実は僕もその一人で、当初、この公案を読んだ時の感想は、「この坊主、食事の後に鉢も洗っていなかったのか!」でした。

 実際にはそんなことは無いでしょう。では何故、趙州(この人は禅の歴史の中でも達磨に次ぐくらいの大覚者です。)はこんな「あたりまえ」で「当然の」事をわざわざ指示したのか。

 しかも無門和尚は、「趙州は最も重要なもの(禅の神髄)をさらけだしている」と大絶賛です。

 おぼろげながら、僕が考える解釈はこうです。
 なるほど新参者は、意気盛んに未知の何かを探ろうとする。それはそれで大切なことかもしれないが、先ずは自分自身の鉢、すなわち力量を知らねばならぬ。
 自分の鉢を洗う、つまり自己の力量を十分に知り、それを磨くことから始めなければ、その鉢(力量)を越えた飯は食えまい。自分が消化できる量よりも多くの飯を食うのは、身体に悪いぞ。

 と、まあ、僕が瓶の音と鐘の音を聞き違えていなければ(多分、聞き違えています。ちょっと出来過ぎですね。)、この公案が述べようとしている事は、このような事だと思います。

 現代社会は、あれこれおいしそうなものが並んでいます。
 でも、自分の鉢以上のものを食べ過ぎて、身体を壊してしまう人が多いように思えます。

 腹八分目ですか。