先日、僕の文章をいつも読んでいるという方からメールをいただきました。たいへんありがたい励ましの言葉の後、「友達に尋ねられて気になっている事」として、「哲学に関する『ドーナツの穴』問題というものがどういうものなのか、教えていただけないか」という内容が書かれていました。

 お恥ずかしながら、僕は『ドーナツの穴』問題というものを知りませんでしたので、早速インターネットで調べてみました。

 はっきり「こういうことだ」という記述は見つけられなかったのですが、どうやら実在に関する導入問題として、いろんな場面で使われているようです。
 この問題を一言で言えば、『ドーナツの「穴」は、ドーナツ(の一部分)なのか』という問いらしいのです。
 「んじゃ、音楽の『休符』の部分は音楽じゃないんかい。」
と、苦笑しながらインターネットに掲載されている議論を眺めていました。
 もちろん、「穴」ですから、物理的には単なる空間です。しかし我々は、物理的には全く同等の空間に、ある意味を見いだしている場面が多々あります。特に神事に関する事には、ある種の空間が重要な意味を持ちます。

 このようにみてみると、たとえ「何もない」空間であろうと、我々はそこに「意味」を付すことができます。いえ、逆に「何もない」からこそ、我々はそこに超越的な意味すら付すことができるのです。もっとも、ドーナツの穴に「超越的」という言葉はやや大げさですが。

 この問題の『問題』は、物理的な意味での空間、もしくは「存在」と、「意味の付加」をはっきり分けることなく議論していることです。
 ですから、僕なりの「ドーナツの穴」問題に対する解答は、『ドーナツの穴は、我々が「ドーナツの穴」という意味を付している空間である。ただしその空間の実在は我々がまなざしを向けたときにのみ生じる。』となります。