南泉禅師に、若き日の趙州が尋ねた。
 
 「道というものは、どんなものですか?」

 南泉、「ふだんの気持ちが、道じゃよ。」

 「では、ふだんの気持ちを、どのように仕向ければ良いのでしょうか。」

 「仕向けると、はずれるぞ。」

 「仕向けなければ、道は知れますまい?」

 「道は知る知らぬを越えたものじゃよ。知るというのは妄想じゃ。だが、知らぬのは無知じゃ。仕向けずに道に行き着いたら、それこそ大空のようにカラリとするものさ。良し悪しなんぞ、かまわんじゃないか。」

 趙州はその言葉で悟った。



 【無門の解説】

 南泉は趙州にきかれて、たちまちサラリと解き、ラチもなくしてしまった。趙州が悟れたとしても、南泉の境地にはあと三十年はかかるだろう。

 詩に、

 春は花咲き、秋は月

 夏は涼風、冬は雪

 あだに心を遣わねば

 わが世楽しく時は過ぎ


 【松川亜人の雑感】

 
 「本当の自分」を、すなわち自分の進むべき道を必死で探している人がいます。

 けれど、自分の中にある道をいくら探しても、満足のいく答えは見つからず、「これは本当の自分じゃない!」と嘆いている人もいます。

 運良く、本当の自分を知った人も、「あなた、勘違いしてない?」と周囲から思われる事もしばしばです。

 では、道を探すのをあきらめるか。

 いやいや、それでは、大空が曇ったままです。

 カラリとした大空にいきつくまでは、あと三十年探し続けましょう。


 ところで南泉和尚、どうしたことか、さらりと解答を示してしまって、すっかり「ラチもなくして」しまいました。これでは無門和尚の心配も当然でしょう。