やがて、虫たちが活動を始めだした。
 
 彼は、葉陰でただ漠然と彼の作品を見つめていた。彼女か来るかどうか、考えないようにしていたが、時間が経つに連れ、どういう訳か、彼の心臓の鼓動が早くなりはじめた。彼は少し息苦しくなった。
 
 不意に、彼の目に、星のきらめきのような鱗分を蒔く羽が飛び込んできた。彼は息をのんだ。彼女が現れたのだ。
 
 彼女は、昨日と同じく、彼の作品の前に来て、それを眺めていた。今日は声にこそ出さなかったものの、終始笑顔で、「きれいな物」を見る喜びを湛えていた。
 
 彼は、その笑顔を見ながら、自分がこの蝶を好きになった事を感じた。自分の作品を、自分と同じように「美しい」と感じている彼女を。
 
 暫くして、昨日と同じように彼女は飛び立った。彼の作品から少し離れたところで、彼女が一度振り向いて、彼の作品をもう一度見たことが、彼を更に喜ばせた。

 彼女が見えなくなると、彼は葉陰から出てきた。そしてやはり、昨日と同じように朝露が乾きはじめた彼の作品を壊し始めた。そして、壊し終えた後、彼は葉陰に引きこもり、眠りについた。
 
 夢は見なかった。




 そうして、彼はこのような行動を数日間繰り返した。
 
 彼女も、朝一番で彼の作品を見に来るのを日課としていた。日中に同じ場所を通る時が何度かあったが、彼が撤去した後であり、彼女はそれとは知らず、彼の作品があった場所を素通りしていた。
 
 何度か、夜行性の羽虫が彼の作品に飛び込んできてしまう事があった。そんな時は、彼は大急ぎで羽虫の撤去に向かった。先ず彼は、ともかく羽虫を作品から取り去ろうとしたが、羽虫は驚いて暴れるので、結局は、糸で体を巻き付ける事になった。そして、糸を巻き付けた羽虫を葉陰に引き込み、すぐに壊れた部分の補修にとりかかった。
 補修が終わり、葉陰に引きこもった後、彼は羽虫を食べ始めた。それは体の欲求に従った行為だったが、自分の作品に捕らえられたものを食べるということに対して、釈然としないものがあった。



 その日の夕方、彼はいつものように、8つの青い葉に糸を掛けていた。
 
 空には少し雲が残っていたが、まずますの天気だった。明日の朝も、形のいい朝露が付いてくれそうだった。
 日が暮れ、彼が糸を繰って作品を作っていた時、彼は東の空から月が昇るのを見た。満月だった。いつもより明るい光の中で、彼の作業ははかどった。明らかに彼は、浮かれていた。
 
 彼はいつもより早く網を掛け終わると、早々に葉陰に戻り、月を眺めた。今まで気が付かなかったが、月には模様があるのだな、と彼は思った。蝶達は、あそこまで飛ぶことができるのだろうか。そういえば、以前、月明かりに向かって、羽虫たちが群で飛びたっていった事があったっけ。あいつら、あそこまで行けたのかな。ああ、空を飛べたら、どんなにいいだろう。僕が空を飛べたのは、子供の時。糸を風になびかせ、大勢の兄弟達と一緒に飛び出したっけ。でも、ここに住み着いてから、もう空を飛ぶことはなくなったな。もう、糸を伸ばしてもこの体を宙に浮かせることはできないだろうな。それに、そんなふうに飛んでも、ちっともきれいじゃない。あの娘と一緒に飛ぶには、きれいな羽が必要なんだ・・・・。
 
 彼は、ぼんやりと月を眺めながら、しだいにまどろんでいった。

 

 何か、物音が聞こえた。
 
 彼は浅い眠りから引き戻された。
 ああ、また、うっかりものの羽虫が捕まったな、と思い、しかたなく彼は顔を上げてみた。
 
 一瞬、彼の思考が止まった。
 月明かりに光る星のような鱗粉が目に映ったのだ。
 糸に捕まっていたのは、まぎれもなく彼女だった。


 (つづく)