僕自身の職業に関することなので、あまり詳しくは言えないのは遺憾だが、近頃、ある「手続き上のシステム」に変更が加えられ、それが実施された。

 新たなシステムには、どうしても最初は不慣れな部分やミスもある。そういった初期の不具合を差し引いてみても、この新たな「システム」には、問題が多かった。

 手続き上の不具合など「表に出る」ものにも深刻な問題があるが、実はもっと問題なのは、このシステムが導入されたねらい、哲学に関する事なのだ。

 アガサ・クリスティの推理小説に『ABC殺人事件』というのがある。以下、少々この本の内容についてのネタバレになるので、推理小説フアンの方は以下の段を飛ばして読んでもらいたい。

 この小説の主題は、「犯罪動機の隠蔽」である。殺人者が「C」という人間を殺す動機を持っており、「C」が殺害されることで自分自身が疑われる可能性がある。そこで、全く関係のない「A」「B」を殺すことで、「C」が単に連続殺人の延長線上で殺されたものとみせかけるのである。

 実は、新たに実施された「システム」には、これと同じような事がおこっていた。
 「C」という目的を達成したいが、その「C」だけを実行しては世論や倫理的な反対を
受ける恐れがあるとき、「C」以外にも「A」や「B」を実行するのである。しかし、制度上、「A」「B」「C」は連続したもののように見えるため、このシステムの「動機」である「C」が隠蔽され、「C」を単独で実施する事による批判をかわせるのである。
 こういった隠蔽は、意識的にも無意識的にも起こっている。僕が関わっているこの「システム」は、まだ「意識的」な面がある分だけ解明と改善は可能だろうと思う。

 抽象的で、何を言っているのかが分からないと思われるだろうが、僕自身が関わっている「システム」(もっとも、僕の立場は巻き添えを食った「A」や「B」なのだが)だけでなく、現代社会の「システム」の多くは、様々に隠蔽された動機があるようなのだ。
 
 これは僕の考えなのだが、そういった「隠蔽された動機」は、社会システムが機能不全を起こすときに顕在化してくる。現在はそういった時代だと思う。そして、顕在化した「隠蔽された動機」を確実に捉え、明るみにしていくことが、新しい社会システムを構築する上で欠かせない作業になるのだろうと思う。