近代の「知」のあり方について、決定的な影響を与えたのはベンサムの考案したパノプティコン(一望監視装置)をその構造に持つ学校システムの完成だろう。
 
近代の学校システムは、ごく少数の教授者が多数の学習者を一望監視できるシステムを持った。そのシステムにおいて学習者は、教授者から向けられる特定のパースペクティブにさらされ、やがて学習者はそのパースペクティブを内在化し、自己の行動を自ら(無意識のうちに)統制するようになる。

 このようなパノプティークなシステムは、それまで学習者が生活する共同体内における学習者の位置づけ(学習者の共同体内でのコンテクスト化)を剥奪し、学習者を共同体から「脱コンテクスト化」する働きを持っていた。
 同時に、それまでは共同体内における「知」のコンテクスト化を、学校というシステム内において、全く独立したパースペクティブとして「知の脱コンテクスト化」が急速に進行していった。
 
 この「学習者」と「知」を共同体から脱コンテクスト化させることは、20世紀近代社会の発展にとっては大変有効に作用していた。それは産業を活性化させ、地球規模の市場を出現させるに至った
 
 しかし、現在、特に1970年代以降の情報化社会の到来によって、学校をはじめとして工場、会社など、社会全体に張り巡らされていた一望監視のシステムがゆらぎ始めてきた。人々を、ある一定のパースペクティブにて自らを律するようにしむける事が非常に困難になっている。
 
 近未来の社会が、大量生産・大量消費に代表される統一的なパースペクティブを持った近代社会とは異なることは明らかだろう。
 奇妙なことに、情報化社会は個々人に関しては統一的なパースぺクティブの獲得を阻害する方向に働くが、ネットワークを通じて、個々人を新たな「共同体」へと組み込む作用を持つ。
 
 近代の「知」は、統一的なパースペクティブのもとで厳然と序列化・階層化が進んでいたが、近未来の「知」は統一的なパースペクティブを持たないネットワークの中に存在するようになるだろう。