(2002年2月に書いたものです)

 今、話題になっている本、『世界がもし100人の村だったら』について、「これは、お金持ちは幸せで貧乏は不幸せということを前提に書かれているように思えてなりません。」という批判があり、少しこの批判に反論してみたくなりました。


 この本を読んだ感想として、僕は単に「視点」を提示しているものと受け取りました。

 現に著者(?)の主張は、『いろいろな人がいる/この村では/あなたは違う人を/理解すること/相手をあるがままに/受け入れること/そしてなにより/そういうことを知ることが/大切です』という部分に現れています。

 この文章を読む限りでは、自分と異なるカテゴリーに分類されるであろう村人を「不幸だ」としているのではなく、そういう人々の「存在」に目を向けよ、と言っていると思います。

 更に、この本で「価値観」を示す言葉が現れているのは以下の2つの文章だけです。

 『もしもあなたが/いやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに/信仰や信条、良心に従って/なにかをし、ものが言えるなら/そうではない48人より恵まれています』

 『もしもあなたが/空爆や襲撃や地雷による殺戮や/武装集団のレイプや拉致に/おびえていなければ/そうではない20人より/恵まれています』

 確かに僕自身も、この文章では、ハタ、と立ち止まって、このカテゴリーにあてはまる人々を「(自分自身との比較として)不幸だ」と決めつけてもよいものであろうか、と首をかしげました。

 しかし、僕は、そう「決めつけ」ても良い、という結論を出しました。

 この2つのカテゴリー以外の文章、例えば『すべてのエネルギーのうち/20人が80%を使い/80人が20%を分け合っています』というテクストには、「価値」は現れていません。しかし、読みとる我々が、「エネルギーを多く使えることが幸福」というコンテクスを内に持っているとき、このテクストから「価値」を読み出してしまうのです。

 ですから、これらの文章については、とりあえずエポケー(思考停止)しておいて、たとえば自分が80%のエネルギーを使っている20人の中の1人だとするなら、もう1つのカテゴリーに属する村人達の存在を「知る」ことに留めておくべきだと思うのです。

 なぜならば、決して、「20%を分け合う80人」が不幸である、などとは言えないからです。(日本が本当に『豊か』かどうかを考えてみれば分かるでしょう?)

 ところが、先に提示しました二つの価値観を含む文章は「そうはいかない」のです。

 この二つのカテゴリーには、「知る」という行為から更に進んで、「価値付けをする」という行為が求められています。

 確かに、この二つのカテゴリーに属する人々が「本当に不幸なのだろうか?」と疑うことは可能です。

 しかし僕は、それを疑ってはいけないと思うのです。

 それを疑うということは、確かにこの二つのカテゴリーを「知って」いることにはなるでしょうが、その向こうにいる「村人達」を見ない事になるからです。

 そして僕たちがこの「疑い」を放棄したときに、はじめて世界は「目的」を持つことになります。

 
 「この二つのカテゴリーの無い世界を作り出す」という目的が。