奇妙なメールが僕の所に届きました。

 いきなりぶしつけな厭世観を書いて、最後には「死」をにおわせるような終わり方だったのです。

 自分が何者で、どこで僕の事を知って、どういうつもりで僕にメールを送ったのかの一言もありません。
 あまりに失礼だと思い、無視しようかとも思ったのですが、「死」をにおわせている以上、そうそう無視するのも気が引けます。

 それで僕は一言、「違う」とだけ書いて返送しました。

 すると、数時間後に、返事がありました。

 僕がぶっきらぼうに「違う」とだけ返事をしたのがお気に召さなかったのでしょうか、『断定はあらゆる可能性を断つ最も愚かな行為』だという内容でした。

 ああ、どうやらべつに死にたいわけではなさそうだな、と一安心して、今度は「そうですね」とだけ書いて送信しました。

 このやりとりにおいて、僕はこのメールの差出人と「理解し合う」ということを求めていません。
 「違う」という僕の思いを受け止めて欲しいとも思いませんでした。ただ完全なる否定を返すことで「死」に向かっているような彼の価値観を攻撃しようと思ったのです。

 幸いなことに、彼の返信から、今のところ「死」に向かう価値観は、概念的なものにとどまっていうことが窺われました。
 返事を返すまでもないかな、とも思ったのですが、せっかく『断定は....』という面白い命題を送ってくれましたので、その返事として完全なる肯定を返したのです。

 完全な否定も、完全な肯定も、『断定』です。この人が指摘したとおり、この両者は議論を発展させる作用を持ちませんので、『愚かな行為』と言えるかもしれませんね。時々有用ですけど。
 このことは、議論が発展する条件に、大きな示唆を与えてくれるものです。以後の考察の主要な部分になるかと思います。

 僕は彼と議論するつもりなど無かったので、「そうですね」と返したのです。

 その意味を理解してくれたのかどうかは定かではありませんが、以後、メールは来なくなりました。