児童虐待、ストーカー殺人、仮釈放者の犯罪など、心が暗くなる事件報道は途切れることがありません。
 願わくば、このような報道に我々が「慣れ」てしまって、ニュース性がすっかりなくなって報道すらされなくなる前に、少しでもこれらの事件が減少してもらいたいものです。

 ところで、これらの事件報道に「付随した」ような形で、警察や児童相談所の対応のまずさが明るみになる事が最近目立ちます。中には、明らかに予見可能な状態を放置しておいたり、申請を拒否したり、事件が発生した後にあたかも事前調査を行ったかのように偽装したりと、事件発生の責任の一端であると言い切ってもよさそうな不祥事もあります。

 しかし、そのような言語道断の不祥事以外にも、報道を見る限りにおいては、対処そのものは手続き的にも法的にも問題はなく、「見抜けなかった」、または「予見できなかった」というものが多く含まれているような印象を受けます。
 そのような、担当者の予見能力をすりぬけて発生してしまった事件に関して、ことさら、専門機関の対処の不味さを強調することは、いかがなものかと思っています。

 言うまでもないことですが、犯罪に対する第一の責任は犯罪を犯した者にあります。ところが、その犯罪に対処する諸機関の不手際があると、犯罪そのものの動機や社会的な背景の解明への関心よりも不手際に対する非難の方が大きくなってしまう感すらあります。

 僕はこのような状況に対して、二つの危険性を感じています。

 一つは、専門機関が不手際という非難を恐れ、「アリバイ作り」に走るのではないかという恐れです。
 仮に事件が起こったとしても、ちゃんとした言い訳ができるように「手続き的」な事務処理が重要視され(もちろん必要な事務処理なら大切ですが)、肝心の「危険性の度合いの判断」を行うための情報収集や状況認識といった行為の重要性が専門機関内で相対的に低下してしまう恐れがあると思います。

 もう一つは、犯罪の発生の要因となった社会背景や環境等が十分に解明されないまま、犯罪防止や予防といったものを「専門機関」に委ねる風潮の強化です。
 確かに、犯罪の責任と同様に、犯罪の発生に対しても犯罪者個人の気質が第一の要因です。しかし、人間の気質に対する環境による影響の大きさを考えたとき、我々一人一人が所属する社会、すなわち我々の意志の集合体とも言える社会環境が、なんらかの形で犯罪発生に対しての影響を及ぼしたのだということは、論を待たないでしょう。

 いわば、犯罪は「社会の一部」であるのです。
 ところが、あまりにも自分達の生活とはかけ離れた理解しがたい犯罪に対して、我々はそれを社会から、少なくとも自分の生活からは切り離して考えてしまいがちです。
 何も世の中に発生する犯罪の全てに対して責任を感じろ、とまでは言いませんが、自分自身がこの社会の一員であり、この社会を土台にして犯罪が発生しているのだ、という認識は必要かと思います。
 
 かつて、『水と安全が空気のようにあたりまえに存在している国』と評された日本。
 今は水と安全をお金を出して購入する時代になりました。
 かつてのような安全な社会を取り戻す事を願うのは、時代の流れに逆らう愚かな事かもしれません。「社会」や「人々のつながり」といったものは、今や構造疲労を起こしている概念なのかもしれません。
 希望を見いだすのは大変に難しい事かもしれませんが、個の幸福が社会の幸福とは決して無関係ではないのだということを、どれだけ多くの人々に考えてもらえるかに、僅かな望みがあるような気がしています。