近頃、マジックショウがちょっとした流行りのようだ。
 マジシャン達も、一昔の彼らのような寡黙さはなく、どちらかというとコメディアン的な会話とパフォーマンスで観衆を楽しませてくれる。
 
 マジックを見ていて思うのだが、もしも僕たちがマジックに対して「タネが無い」という前提で見た場合、マジシャン達はすべからく超能力者になってしまう。実際、「超能力者」達は、(全てと言い切るのも少し気が引けるが、恐らくは全て)観客に「タネが無い」事を信じ込ませる事に最大の労力をつぎ込むマジシャンと言っていいだろう。
 もちろんマジックでも、「タネもしかけもありません」というのが常套句ではあるが、それでも、僕たちがマジックを見るときと超能力を見るときでは、その姿勢が異なる。マジックを見ているときは「どこにタネがあるのだろう」と考えて、「タネが分からない」事に面白みを感じるのだが、超能力を見る場合は、常識ではありえない現象そのものを楽しんでいる。もっと言えば、マジックは「タネがある」事を前提として目の前の現象に驚きを感じるが、超能力は「タネがない」事が前提でないと当然ながらそれは超能力にならない。

 これは「科学的態度」に関わる問題でもある。
 「科学的態度」とは、(様々な「流派」のようなものがあるようだが)一般には、「自然現象をよく観察し、その結果からある法則を導き出す事」だとされる。ところが、これをマジックや超能力にあてはめたとき、我々が持つ常識や科学的な知識はことごとく覆される。
 しかし、マジック(恐らくは超能力も)を見た後でも、我々の常識や科学的な知識は揺らぐことはない。それは、当然ながらマジックには「タネ」があり、それは我々の常識の範囲内に収まるであろうと我々が考えているからである。
 ところが超能力の場合は、我々に常識と科学的な知識との変更を求めてくる。もちろんそれは容易には認めがたいので、「超能力」を見た人も、すぐには自分の常識を変更することはしない。

 これとは逆に、我々の「科学的態度」を逆手にとって用いられる「科学的」という言葉も、そこかしこで聞かれるようになった。
 「科学的」という言葉が用いられるとき、よくよく注意しておかないと、その現象が「科学的」であるための前提が使用者に都合のいいように用いられている場合がある。そしてその前提には何の根拠も無かったり、それこそ「科学的」ではなかったり、実は前提ではなく「仮定」であって、それが異なってくると結果も全く異なってしまったりする。
 こういう、どうもおかしい「科学的」な事が、身の回りには沢山ある。
 テレビ番組の中にもある。環境問題の中にもある。教育問題にもある。公共事業の意義にもある。政治課題にもある。国際紛争の「大儀」にもある。

 これらよりも、まだ「タネがあるよ」という事を前提としているマジックの方が、よほど良心的である。前提を都合の良いように歪曲した「科学的」という言葉は、「超能力」と同じくらいに胡散臭いのだ。