「なぜ人を殺してはいけないのか」について、ものの本には以下のようなことが書いてあります。

 『例えば巨大なロケットが壊れても、修理を行えば元のロケットとしての働きをすることができる。ところが、とても小さなハエや蚊は、一度壊れてしまうと二度と元へはもどらない。生命は、一度その機能が失われると修復不可能なのである。それゆえ、生命は尊いものなのである。』

 まあ、上記のような論理は、実に教科書的で、一見尤もな議論に思えます。
 しかしよくよく考えてみますと、どうにも腑に落ちない部分も多く見られます。
 
 まず第一に、生命が『修復不可能』であるがゆえに『尊い』というのは、やや飛躍しすぎだと思われます。
 壊れやすく繊細なガラス細工を乱暴に扱う人はまずいません。しかし、だからといって、繊細なガラス細工を「乱暴に扱ってはいけない」根拠は何もないのです。単に「繊細な」「ガラス細工」に対してのある種の価値を我々が見いだしているがゆえに、扱いが丁寧に行われるのだけにすぎません。もしも、「繊細な」「ガラス細工」に対して何の価値も見いだせない人がいれば、その扱いはぞんざいなものになるでしょう。
 同様に生命の持つ『修復不可能性』にそれほど特別な意味を見いだせないならば、生命が『尊い』という論理は成り立ちません。そして、その「見いだす」という行為は、決して科学的・論理的説明が可能な事柄ではありません。それはいわば、我々がガラス細工に対して持つ価値観が、他者が持つガラス細工に対する評価を見ることによって「学んでいる」事であるのと同様に、他者が行う生命に対する態度から「学ぶ」事柄であるのです。いわば一つの行動規範なのです。

 しかし考えてみるとこれは当然なことで、「尊い」という価値判断そのものが、集団の行動規範に準拠しているわけですから、生命に対して「尊い」という態度をちゃんと行動規範として「学んでいる」人にとっては、『生命は修復不可能であるが故に尊い』というテーゼは何の不思議もなく受け入れられます。
 逆に言えば、その生命に対する行動規範を学び取れていない者にとっては、このテーゼは理解不可能で無意味なのです。

 第二に、この本の内容を聞いた限りでは、ハエや蚊の「生命」と、人間の「生命」が全く同列に扱われてしまっています。人間の生命が奪われることに対しては非常に問題視されるのに、ハエや蚊の生命が奪われることに対してはさほど問題視されない理由はここからは読み取ることができません。極論を言えば、ハエや蚊の持つ生命の「尊さ」が、我々がハエや蚊に対して行う行為程度の価値であるのであれば、人間の「生命」に対しても同様な行為を行う事に何の不都合は無いことになります。
 もちろん、人間を「ムシケラノヨウニ」扱う事は(社会の行動規範に照らして)許されることではありません。

 結局の所、「なぜ人を殺してはいけないのか」に対する答えは、決して科学的・論理的に説明できるものではなく、一人ひとりが、他者や集団との関わりを通して行動原理として学び取っていかなければならない事柄なのです。

「人を殺してはいけない」という「行動原理」は、人と人との関係によって学び取られていくものだと考えられるならば、それに最も近い学びの形態は「言語能力」の取得だと思われます。
 母国語習得のプロセスについての研究については僕は明るくないのですが、少なくとも子供達は学齢期以前に最も基本的な母国語の言語能力は習得しているようです。
 ただ、一時期話題となりました小学校低学年の「学級崩壊」は、子供達が習得すべき「行動原理」の未成熟さの現れであると思えなくもありません。

 このあたりになるともう憶測でしかないのですが、今の子供達は、社会性を営むための機会をことごとく奪われているのではないでしょうか。そのことによって、社会性という、「言語」に匹敵する能力が著しく欠如してしまっている。

 実は「言語」と「社会性」とは不可分の概念でして、言語によるコミュニケーションにおいては「社会性」の概念が全く異なる他者とは、同一の言語を用いたとしてもコミュニケーション不全に陥ってしまいます。
 
 もちろん子供達の社会性は、「異なる」のではなく、「未成熟」と考えるべきでしょう。 しかし、社会性が未成熟な子供達(最近は「大人達」も!)にとって、言語は我々の想像以上に純粋な刺激を子供達に与えます。それは混ざりけのない純粋な酸素のように、生命体にとっては毒ともなり得るものです。
 少年犯罪において、インターネットの影響が取りだたされています。ネットでの言葉のやりとりは相手と対面して交わされる場合よりも更に「言語」が極めて純粋に投げかけられます。社会性という緩衝材を持たない子供達にとっては、あまりにも刺激が強いのかもしれません。