現在の若者言葉に、「意味わかんなーい」というものがある。
 文字にするだけでもなんとなく恥ずかしくなるが、だからといって、この言葉、我々「若者ではない年齢層」が言う「意味が分からない」と同等の意味ではないと思う。

 「意味わかんなーい」という言葉を発した若者に直接聞いたことがないのでこれは予測でしかないのだが(だからといって実際に聞いてみたとして、それこそ「意味わかんなーい」と言われるのがオチのような気もする)、この言葉は単純に「あなたが言わんとしている事が何なのか分かりません」ということを表現しているのではないようだ。
 恐らくもっと近いニュアンスとしては、「私には関係ない」ではないかと思う。

 ではどうして単に「関係ない」と言わないのか。それは、「意味わかんなーい」と言う場面において、その対象が実際には自分自身と「関係ある」場合も多いからだろう。
 
 しかもこの言葉が巧みなのは、ただ単に「自分には関係ない」と言った場合に想定される非難(「なにバカなことを言ってる!」や「関係あるだろう!」など)をうまくかわせることだ。
 なぜなら、何か自身に関係ある事柄について、もしも本人がその事柄を「理解していない」のであれば、自分の行動について責任を減じられるか、情状酌量してもらえる事が一般的だからだ。
 つまり、「意味わかんなーい」という言葉は、本当は自分自身に関係ある事柄を拒絶し、しかも自分に降りかかってくる責任をも減ずるという、恐るべき作用を持っているのだ。

 更に深刻であるのは、この言葉を言われる側、主に「古い」人間にとって、人間とは、「他者とそれを含む外界への理解を欲するということをその本質として持つ」のだと、ほとんど真理のように思われている事だ。当然、その「人間の本質」への期待は、若者にも向けられる。つまり、「古い」人間は、若者も自分達と同じように他者や外界を理解したいと欲しているはずだ、(なぜならそれが人間の『本質』だからだ)と思い込んでいるのだ。

 恐らくは今の若者であっても、純粋な感情としては外界への理解の欲求は存在するだろう。しかし、自分に(ことわりもなしに)降りかかってくる事柄の全てを理解しようという意志は、最早持ち得ないのではないだろうか。
 にもかかわらず、現代は多くの、それこそ理解が困難な事柄でさえ、「自己責任」という錦の御旗を降って迫ってくる。

 もしかしたら、「意味わかんなーい」という言葉は、(若者にとっては)理不尽に降りかかってくる現実に対する自己防衛なのかもしれない。