GG Forza SINRA

GG Forza SINRA

Gloly Gloly Forza Sinra

サッカー、日ごろの愚痴等

創立

 1878年、マンチェスターの鉄道員が中心となって、ニュートン・ヒース・ランカシャー&ヨークシャー・レイルウェイズFCとして創立。創立後数年は殆ど公式試合はせず、チーム内のメンバー同士で試合を行う以外は専らほかの鉄道会社のチームと非公式に対戦していた。1882年から1883年の間に26試合の新全試合をした記録が残っている。1884年、地元のカップ戦であるランカシャーカップに出場するも、1回戦で昨年のFAカップ覇者のブラックバーン・オリンピックのリザーブチームに2-7で敗戦した。1885年にプロサッカークラブへと転向し、1892年にニュートン・ヒースFCと名称を変更した。当時のオーナーの方針で観客から入場料を取らなかったことやグラウンド移転費用が嵩んだことなどの事情が影響し、1902年に破産している。地元マンチェスターの醸造業主のジョン・ヘンリー・デイヴィスが500ポンドをクラブに投資してオーナーに就任し、クラブ再建に着手した。1902年にチーム名が変更され、マンチェスター・ユナイテッドとなった。

 創生期に2度のリーグ優勝後、1910年代から1950年頃までは低迷。第二次世界大戦時には空襲でオールド・トラッフォードが被災し、戦後も資金不足から修復出来ず、マンチェスター・シティの当時の本拠地メイン・ロードを拝借せざるを得なかった。

マット・バスビー時代の二度の栄光

 1945年、マット・バスビーが監督に就任すると、クラブ最初の黄金期が訪れる。バスビーは、チーム先行や移籍市場、トレーニングセッション等を全て自身の管理下に置くというイングランドサッカーのマネージャー像の先駆けとなり、1946-47シーズンから3シーズン連続でリーグ2位と躍進し、1947-48シーズンのFAカップでは優勝を果たし、チームに36年ぶりのトロフィーをもたらした。そして、1951-52シーズンに41年ぶりとなる悲願のリーグ優勝を果たした。

 バスビーは、その後のクラブの重要なアイデンティティとなる下部組織の整備にも取り掛かった。バスビーの就任は、終戦直後の財政難の時期であったため、彼は下部組織選手の育成に重きを置くことにより、長期的視野での戦力強化を行ったのである。バスビーが下部組織から見出したダンカン・エドワーズ、ボビー・チャールトンといった選手たちは「バスビー・ベイブス(バスビーの子供たち)」と呼ばれ、1956年からは国内リーグ2連覇を達成する快進撃を繰り広げた。
 クラブが見事に復活を遂げたように見えた矢先の1958年2月6日、ミュンヘンの悲劇で主将のダンカン・エドワーズを含む選手8名とスタッフ3名が死亡。バスビーも重傷を負った。一時はフットボールへの情熱を失ったバスビーだったが、夫人らの説得もあり翌シーズンから現場に復帰。同じく事故のショックから立ち直ったボビー・チャールトンをチームの柱を据え、クラブの再建に着手した。

 1960年代にはいると、2度目の黄金期が訪れる。デニス・ロー、ジョージ・ベストといった才能が次々に頭角を現し、1963年にFAカップ優勝、1965年と1967年には国内リーグも制した。そして1968年、チャンピオンズカップ決勝でSLべねふぃかをチャールトンの2ゴールに、ベスト、キッドのゴールで4-1と破って優勝を果たし、ミュンヘンの悲劇で志半ばに潰えた悲願を達成した。同年、チャンピオンズカップ優勝の功績を称えられ、バスビーにナイトの称号が与えられた。
 しかし、1970年代に入ると世代交代に失敗。1974年には2部落ち(翌年1部に復帰)の憂き目にも遭い、再び低迷期が始まった。1980年、前年にブラヴォー賞を受賞したギャリー・バートルズを大金で獲得したが、失敗に終わった。


アレックス・ファーガソン時代の栄光
 低迷期を終わらせたのは、スコットランド人監督アレックス・ファーガソンである。1986年に就任した彼は若手の育成と

暴れ馬と呼ばれた選手たちの融合に見事成功し、常勝軍団の系譜をスタートさせた。

 プレミアリーグの優勝回数13回は最多であり、旧フットボールリーグ・ファーストディビション時代を通じても、優勝20回は歴代1位である。FAカップで11回、カーリングカップで2回、UEFAチャンピオンズリーグで3回、UEFAカップウィナーズカップで1回のタイトルを勝ち獲っている。1990-91シーズン、UEFAカップウィナーズカップ決勝では、マーク・ヒューズの2得点でFCバルセロナを破り、1967-68シーズン以来の欧州カップ戦優勝を果たした。

 1992-93シーズンの途中にエリック・カントナをリーズ・ユナイテッドFCから獲得した。このシーズンは1966-67シーズン以来となる1部リーグ優勝を果たした。翌シーズンはリーグ連覇だけでなく、FAカップも獲得した。1998-99シーズンは、クラブにとって特筆すべきシーズンである。ファーガソン監督の下、ユース時代から育て上げられたデビッド・ベッカム、ガリー・ネヴィルとフィル・ネヴィル、ポール・スコールズ、ニッキー・バット及びライアン・ギグスら、所謂「ファーギーズ・フレッジリングス(ファーガソンの雛鳥たち)」と呼ばれた選手たちを中心に、UEFAチャンピオンズリーグ決勝でバイエルン・ミュンヘンを劇的な逆転で下し、ヨーロッパ覇者となった(カンプ・ノウの奇跡)。このシーズンは、リーグ優勝とFAカップ優勝を合わせたトレブルを達成。ヨーロッパサッカーシーンに「赤い悪魔」の名を轟かせた。

 1995年にイプスウィッチ・タウン戦でリーグレコードの9-0の大差で勝利。1999-00シーズン、2000-01シーズンとリーグ優勝し、クラブ史上初のリーグ3連覇を達成した。

 ユナイテッドはファーガソン監督の下、高い実力と人気を兼ね備え、1990年代はアーセナルと共に2強と呼ばれた。2002-03シーズン以降はアーセナル(2003-04シーズンに無配優勝)、チェルシー(2004-05、2004-06シーズンに2連覇)からの王座奪還を目標とした。2005年10月29日、ミドルズブラ戦でクリスティアーノ・ロナウドが決めたゴールが、クラブのプレミアリーグ通算1000ゴール目(リーグ最速)となった。

 2006-07シーズンにこれまでリーグ2連覇をしていたチェルシーとの激闘を制し、2002-03シーズン以来となるリーグ優勝を達成。2007-08シーズンにUEFAチャンピオンズリーグ決勝でチェルシーと対戦し、延長戦の末PK戦を制し、9年ぶり3回目のUEFAチャンピオンズリーグ優勝を成し遂げた。2007-08シーズン、2008-09シーズン共にリーグ優勝し、2度目となるリーグ3連覇を達成した。

 コンスタントにタイトルを獲得し続けたファーガソンは、再びUEFAチャンピオンズリーグ制覇を目標に、自ら獲得してきた香川真司やロビン・ファン・ペルシを巧みに用いたが、最後の式となってしまった2012-13シーズン、クラブ20回目となるリーグ優勝を置き土産に、27年務めた監督職を勇退した。

ファーガソン退任による迷走期への突入

 2013年5月、ユナイテッドはファーガソンの公認に、エヴァートンを11年に渡り率いたファーガソンの同胞、デイヴィッド・モイーズが6年契約で就任すると発表した。夏の移籍市場ではガレス・ベイル、チアゴ・アルカンタラ、セスク・ファブレガスの獲得を目指したがどれも実現できず、夏の移籍市場最終日にエヴァートン時代の教え子であるマルアン・フェライニを獲得し、冬の移籍市場ではチェルシーからフアン・マタを獲得した。しかしスウォンジー・シティに史上初めてホームで敗戦を喫し、またプレミアリーグ以前も含めて史上初となるマージーサイドの2強(エヴァートンとリヴァプール)に揃って連敗するなど成績が低迷し、1994-95シーズン以来となるUEFAチャンピオンズリーグ出場権を逃した。結果として、モイーズは監督就任から1根持たず、2014年4月22日に解任が発表され、同シーズンの残り試合については、当シーズンからコーチ兼任のライアン・ギグスが暫定監督に就任すると発表された。リーグ戦は7位で終了。25年ぶりにヨーロッパのカップ戦を逃すこととなった。
 2014年5月18日、当時オランダ代表を率いていたルイ・ファン・ハールが、2014ワールドカップ後に3年契約で新監督に就任することが決定した。暫定監督を務めたギグスは現役引退し、アシスタントコーチへの就任が決定。クラブは夏の移籍市場で、約260億円もの大金を投じ、2014ワールドカップで準優勝に輝いたアルゼンチン代表のマルコス・ロホ、アンヘル・ディ・マリア、ファン・ハールのオランダ代表監督時代の教え子ダレイ・ブリントの他、アスレティック・ビルバオからアンデル・エレーラ、サウサンプトンからルーク・ショー、移籍期限ギリギリにASモナコからラダメル・ファルカオを獲得した。即戦力として期待されていたファルカオとディ・マリアが不調に陥ったものの、ルーニーやデ・ヘア、マタといった既存戦力が機能し、リーグ戦は4位で終え、無冠ながら来季のUEFAチャンピオンズリーグプレーオフの出場権を獲得した。

 2015-16シーズンはダレイ・ブリントに続きPSVアイントホーフェンからファン・ハールのオランダ委代表監督時代の教え子のメンフィス・デパイを獲得し栄光の7番を与えた。ASモナコからアントニー・マルシャル、バイエルン・ミュンヘンからバスティアン・シュバインシュタイガー、サウサンプトンからモルガン・シュネデルラン、サンプドリアからセルヒオ・ロメロ、トリノからマッテオ・ダルミアンを獲得するなど、前年に続いての大型補強を行った。しかしCLにおいては、ヴォルフスブルク、PSV、CSKAモスクワとのグループリーグで3位に終わり、グループステージ敗退となった他、その後進んだヨーロッパリーグでも宿敵リヴァプールに2戦合計1-3で敗れ、ベスト16で姿を消した。2016年5月21日のFAカップ決勝でクリスタル・パレスを延長戦で破って12大会ぶり12度目のFAカップ優勝を飾ったものの、リーグ戦は5位に終わり、来季のUEFAチャンピオンズリーグ出場権を逃したことから、ファン・ハールは契約を1年残して解任となった。

 

モウリーニョ体制
 2016-17シーズンよりジョゼ・モウリーニョが新監督に就任、これまで2度チェルシーの監督を務め、3度のプレミアリーグ制覇を成し遂げた名将に名門の復活が期待された。夏の移籍市場では愛弟子のズラタン・イブラヒモビッチ、ヘンリク・ムヒタリアン、エリック・バイリーやユヴェントスから下部組織出身のポール・ポグバを当時のサッカー史上最高額で獲得するなどの相変わらずの大型補強を実施し、リーグカップ決勝でサウサンプトンを下してモウリーニョ体制で初のタイトルを獲得した。リーグでは失点数がリーグ2位の29と堅守を披露し、クラブレコードとなるリーグ戦25試合連続無敗を記録したが、そのうち12試合で引き分けるなど勝ちきれない試合が続いて勝ち点が伸びず、最終的にヨーロッパのカップ戦出場県外の6位に終わった。しかしUEFAヨーロッパリーグでは決勝まで勝ち進み、決勝でアヤックスに2-0で勝利して同大会初優勝を遂げ、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。UEFAヨーロッパリーグの優勝によって、ユナイテッドはユヴェントス、アヤックス、バイエルン、チェルシーに次いでUEFA主催の主要3大会を制覇した5番目のクラブとなった。
 モウリーニョ体制2年目の2017-18シーズンは、センターフォワードにエヴァートンからロメル・ルカク、ボランチにチェルシーからネマニャ・マティッチ、センターバックにベンフィカからヴィクトル・リンデロフと、昨シーズンに問題のあったポジションに即戦力を獲得する補強を展開。これが功を奏し、前半戦終了時点で14勝3分2敗の勝ち点45と歴代優勝クラブに匹敵する好成績をたたき出すが、それを上回るペースで勝ち点を積んだ同郷の宿敵マンチェスター・シティの後塵を拝し2位で折り返す。冬の移籍市場でムヒタリアンとのトレードでアレクシス・サンチェスを獲得し追撃態勢を整えるが、シティの独走は止まらず、4月7日の直接対決に3-2で勝利して目の前での優勝決定を阻止するのが精いっぱいで、例年なら優勝もあり得た勝ち点81で、シティに歴代最多勝ち点での優勝を許す2位に終わった。UEFAチャンピオンズリーグもベスト16でセビージャ相手に2戦合計1-2で不覚を取り、満足のいかないシーズンとなった。党シーズンをもって、13シーズンにわたってユナイテッドで活躍したマイケル・キャリックが現役引退し、翌シーズンからコーチに就任した。
 モウリーニョ体制3年目の2018-19シーズンは、ブリントやアカデミー出身のサム・ジョンストンらを放出した一方で、サイドバックにポルトからディオゴ・ダロト、MFにシャフタール・ドネツクからフレッジ、控えGKにリー・グラントを獲得。ところがモウリーニョ3年目のジンクスが発動してしまい、リーグ開始17試合の時点で昨季の28失点を上回り、特にリヴァプール、マンチェスター・シティ、チェルシー、アーセナル、トッテナム・ホットスパーといった欧州カップ圏を争うBIG6間では3敗2分6得点13失点と後塵を拝することとなり、1-3で敗北した12月16日のリヴァプール戦をもってモウリーニョは解任となった。

ファーガソンの教え子の帰還

 2018年12月19日、OBのオーレ・グンナー・スールシャールが暫定監督に就任した。スールシャールは、就任後のサポーターからの好感や、6連勝スタートを含め就任から12試合連続リーグ戦無配などの好成績もあって、2019年3月28日に3年契約で正式に監督に就任した。ところが、奇跡といわれたUEFAチャンピオンズリーグのパリ・サンジェルマン戦後の公式戦でわずか2勝しか出来ず、最終節を待たずして来季のUEFAチャンピオンズリーグ出場権を逃すことになった。この結果に全世界のファンが黙っているはずもなく、Twitter上に「#UnfollowManUnited」というハッシュタグが登場した。オーナーであるグレイザー一族やCEOのエド・ウッドワードに対する抗議の意であるが、Twitter公式アカウントのフォロワーが減るのと比例してニューヨーク証券取引所においても株価が一時下落した。

 スールシャールにとって初めてのフルシーズンとなる2019-20シーズン、夏の移籍市場では、クリスタル・パレスから昨季ブレイクしたアーロン・ワン=ビサカ、レスター・シティからDF史上最高額の移籍金でハリー・マグワイアを獲得し、長年懸案だった守備陣の強化に成功したものの、MFはPSGに移籍したアンデル・エレーラ、FWはインテルに移籍したロメル・ルカクの後釜の獲得に失敗し、費やした移籍金の高さも相まってCEOウッドワードは再び非難を浴びることとなった。開幕戦こそチェルシーに4-0で圧勝したものの、そこからクリスタル・パレス、サウサンプトン、ウェストハムといった格下から勝ち点を取りこぼし続け、前半戦は8位で折り返した。冬の移籍市場でスポルティングCPからブルーノ・フェルナンデスを獲得すると、彼を起用した第25節から13戦負けなしと猛烈な追い上げを見せ、第37節にレスター・シティとチェエルシーを捉えてCL出場圏内の3位に浮上した。最終節は5位レスターとの直接対決となり、負ければ5位転落の可能性もあったこの試合を2-0で制し、2年ぶりにCL出場権を獲得した。
 2020-21シーズン、スールシャール体制も3シーズン目に突入。夏の移籍市場は、終盤まで新戦力がドニー・ファン・デ・ベークのみと補強が進まずファンも苛立ちを募らせたものの、最終日にエディンソン・カバーニ、アレックス・テレスの獲得が決まって補強を終えた。年が明けて2021年1月12日にはファーガソン最終年以来となる、8年ぶりの年明け首位に立った。ところが首位陥落後、欧州スーパーリーグ騒動において40億ユーロの資金支援を表明したJPモルガン・チェースにウッドワードが勤務していた過去が関係していたためか、カントナらを筆頭にOBの批判を浴びた結果、4月21日をもってウッドワードのCEOの2021年限りでの退任、さらにファンと政府関係者からも批判を浴びたとしてスーパーリーグ撤退が発表された。CLではパリ・サンジェルマン、ライプツィヒ、イスタンブールBBSKと同組となり、3位でEL決勝トーナメントに回ることになった。ELでは決勝まで勝ち進んだが、相手のビジャレアルに敗れ2016-17シーズン以来の優勝とはならなかった。

2021-22シーズンはジェイドン・サンチョとラファエル・ヴァランを獲得し、さらに8月27日にはクリスティアーノ・ロナウドが12シーズンぶりに復帰するなど、積極的な動きを見せた。しかし第9節と第11節で宿敵のリヴァプールとマンチェスター・シティに0-5、0-2で完敗し、第12節の格下ワトフォード戦も4-1で敗れたことで11月21日、スールシャール監督は解任され、マイケル・キャリックがシーズン終了まで暫定監督を務めることが発表された。11月29日、ラルフ・ランゲニックの暫定監督の就任と2022-23シーズンから2シーズンの間、チームのコンサルタントとして就任することも発表された。12月3日、選手時代から含めて15年クラブに在籍したキャリックがクラブを対談することを発表した。その後もリヴァプールに4-0、マンチェスター・シティに4-1で敗北を喫するなどして低迷し、第36節のブライトン戦を4-0で落とすと、残り2節を残してCL出場権圏外の順位でシーズンを終えることが確定し、クラブの勝ち点、失点共にプレミアリーグ創設以来の最低記録を更新した。また、アレックス・ファーガソンが勇退して以来、2022年8月現在で、10億ポンド(日本円で1624億)を費やしている。

テン・ハーグ、アモリム体制、新オーナーの就任

 2022-23シーズンよりアヤックスの監督であったエリック・テン・ハーグが監督に就任した。また、ラングニックとのコンサルタント契約は白紙となった。契約満了により、フアン・マタ、エディンソン・カバーニ、ネマニャ・マティッチ、ジェシー・リンガード、ポール・ポグバが退団。夏の移籍市場でタイレル・マラシア、クリスティアン・エリクセン、カゼミーロ、テン・ハーグのアヤックス時代の教え子リサンドロ・マルティネス、アントニーを獲得した。リーグ戦は開幕2連敗を喫するが第3節で宿敵リヴァプールに勝利し、第6節で開幕5連勝中のアーセナルにシーズン初黒星を与えた。11月にロナウドが記者とのインタビューでクラブが2009年の退団以来悪い意味で何もかわっていないことやテン・ハーグへの不満を露わにした後に退団した。冬の移籍市場では暴徒・べぐホルスト、マルセル・ザビッツァー、ジャック・バトランドを獲得。EFLカップの決勝でニューカッスル・ユナイテッドを2-0で破り、6シーズンぶりのタイトルを獲得した。ELではグループステージでレアル・ソシエダと同ポイントながら得失点差により2位でプレーオフに回ることになった。プレーオフでバルセロナ、ベスト16でレアル・べティスに勝利したが、ベスト8でEL最多優勝を誇るセビージャに敗れた。リーグは3位でフィニッシュし、2シーズンぶりにCL出場権を獲得した。FAカップは決勝まで駒を進めFAカップ決勝では初のマンチェスター・ダービーが実現したが、イルカイ・ギュンドアンに2ゴールを許し、1-2で敗れた。

 2023-24シーズン、ジョーンズとデ・ヘアが契約満了で退団しこれでファーガソンの教え子全員がクラブから去ったと思われたがレスター・シティよりジョニー・エヴァンスが復帰したほか、チェルシーからメイソン・マウント、アタランタからラスムス・ホイルンド、インテルからテン・ハーグのアヤックス時代の教え子アンドレ・オナナを獲得した。今シーズンは不調が続きチームの最低順位でシーズンを終えることになったが、FAカップでは2シーズン連続でマンチェスター・ダービーが実現し2-1で勝利しFAカップ優勝を果たした。
 2024-25シーズン、アントニー・マルシャルとラファエル・ヴァランが契約満了で退団。アーロン・ワン=ビサカがクリスタル・パレス、スコット・マクトミネイがナポリ、メイソン・グリーンウッドがオリンピック・マルセイユ、アルバロ・カレラスがベンフィカに移籍したほか、ドニー・ファン・デ・ベーク、ハンニバル・メイブリ、ファクンド・ペリストリを放出した。また、サンチョがチェルシーへレンタル移籍した。補強面ではDF人の再構築を図るためリールからレニー・ヨロ、バイエルン・ミュンヘンからテン・ハーグのアヤックス時代の教え子マタイス・デ・リフトとヌサイル・マズラウィを獲得。長年問題視されていたアンカーポジションにパリ・サンジェルマンからマヌエル・ウガルテW獲得し、マルシャルの抜けた攻撃陣にはボローニャでブレイクしたジョシュア・ザークツィーを獲得した。2024年10月28日、成績不振が続きテン・ハーグを解任し、本シーズンからコーチを務めていたクラブOBのルート・ファン・ニステルローイが暫定監督に就任した。11月1日、プリメイラ・リーガのスポルティングCPの監督を務めていたルベン・アモリムが監督に就任することが発表された。アモリムは来シーズンからの就任を希望していたが、フロント陣は「来シーズンからならオファーしない」といった半ば脅しの形でアモリムを引き抜いた。アモリムは11月11日よりチームに合流するため、11月10日のレスター・シティ戦まではニステルローイが指揮を執った。アモリム就任後、年内最後のニューカッスル戦を0-2で落とし、1979年以来のホーム3連敗となった。冬の移籍市場では、アーセナルからアイデン・ヘブン、USレッチェからパトリック・ドルグを獲得し、マラシアをPSVアイントホーフェンへ、下部組織出身の10番ラッシュフォードをアストン・ヴィラへ、アントニーをレアル・べティスへいずれもレンタルで放出した。年明けからも調子は上がらず、ウルヴァーハンプトンやウェストハムなどの同じ下位チームにもホームで敗れた。最終節では上位のアストン・ヴィラに勝利するも、15位でリーグを終え、2年連続でプレミア最低順位を更新した。プレミア創設以前を含めても、1989-90シーズン以来の二桁順位、降格した1973-74シーズン以来の低い順位となった。シーズンを通して1度も連勝がなく、プレミアリーグでの連続未勝利(8試合)、最小勝利集(11勝)、最多敗戦数(18敗)、最少得点(44得点)など、あらゆるワースト記録を樹立し、強豪のイメージが崩れ去り古豪と呼ぶに相応しいシーズンとなった。昨シーズンのFAカップ優勝により出場権を得たUEFAヨーロッパリーグでは順調に駒を進め、準決勝のオリンピック・リヨン戦では延長で2点先取され絶望的な状況となりながら、フェルナンデス、メイヌー、マグワイアの3得点で劇的逆転により突破を果たす。決勝では同じプレミアリーグで同じく二桁順位に落ちぶれたトッテナム・ホットスパーと対峙し0-1で敗れより惨憺たるシーズンを印象付けた。また完全・レンタル関係なく今シーズンに退団したワン=ビサカ、マクトミネイ、グリーンウッド、サンチョ、カレラス、ラッシュフォード、アントニーが軒並み移籍先で活躍し、マクトミネイに至ってはセリエAのシーズンMVPに輝き、カレラスはベンフィカでの活躍から名門レアル・マドリードへの移籍が決定するなど不可思議な現象もみられた。
 2025-26シーズン、6月1日にウルヴァーハンプトン・ワンダラーズからマテウス・クーニャの獲得が決定。ラッシュフォードから背番号10を剥奪しクーニャが背負うことになった。7月21日にブレントフォードからブライアン・エンベウモの獲得が決定。クーニャとエンベウモ共に、幼少期に常勝軍団であったマンチェスター・ユナイテッドをメディアを通して目の当たりにしており、エンベウモに至っては「ユナイテッド以外には移籍しない」としていると報道されていたため、未だ名門としての影響力を感じさせられる。

 現在はRBライプツィヒに所属するCFベンヤミン・シェシュコの獲得に注力している。ニューカッスル・ユナイテッドも獲得競争に参戦しているがシェシュコ側はマンチェスターの方のユナイテッド加入を希望している。ニューカッスルはイサクの退団が濃厚とされておりニューカッスルならば99%スタメンが保証されている中、ホイルンド、ザークツィーがいるマンチェスターを希望するのもまた名門のブランド力がなせる魅力なのかもしれない。また、仮にシェシュコが加入した場合はホイルンドを放出させる方向で動いておりこれはザークツィーが現経営陣INEOSが主導で獲得した選手に対し、ホイルンドは旧経営陣が獲得した選手のためかと思われる。

 その他の獲得候補は、アモリムが指導したスポルティングのモルテン・ヒュルマンド、ブライトンのカルロス・バレバ、バレンシアのハビ・ゲラ、アストン・ヴィラのエミリアーノ・マルティネス、PSGのジャンルイジ・ドンナルンマの獲得が噂されている。GKに関してはアンドレ・オナナが負傷しており非常に不安定なアルタイ・バユンドゥルを起用せざるを得ないことに加え、12月からのアフリカネイションズカップでもオナナがカメルーンに召集されることが予想されているため補強が急務である。オナナ自体も足元の技術は確かなものがありながらセービングには非常に難がある。

ブライアン・エンベウモ、マンチェスター・ユナイテッドへ!

 

ザ・アスレチックの報道によると、ブレントフォードとクラブ間で7000万ポンドの移籍金で合意に至ったとのこと。

 

エンベウモはマンチェスター・ユナイテッドへの移籍のみを希望していたため、数週間前に契約に合意していた。

 

クーニャに続き、MUFCの次のターゲットはエンベウモ

創設期

 クラブは1897年11月1日にマッシモ・ダゼーリオ高等学校の生徒らによってすぽると・クラブ・ユヴェントスとして創設され、2年後にフットボールクラブとなった。1900年よりイタリア選手権(後のセリエA)に参加。1903年、1904年と2年連続で決勝戦に進出するも、ジェノアの牙城を崩すことはできなかった。翌1905年、決勝ラウンドでジェノア1ポイント上回り、イタリア選手権で初優勝を果たした。ユヴェントスは他のクラブに比べ外国人選手の比率が低く、イングランド・スタイルのジェノアや、スイス・スタイルのミランと異なり、我流の全員サッカーで勝利したことはイタリアサッカーの転機になった。

 1906年の選手権でも決勝ラウンドに進出し、ミランと勝ち点で並んだため優勝決定のためのプレーオフが開催されることになった。試合は0-0で決着がつかず2戦目が行われることになり、ユヴェントスは中立としてジェノヴァでの開催を提案した。しかし協会はUSミラネーゼのホームグラウンドであるミラノでの開催を決定し、これに抗議したユヴェントスは延長試合を放棄し、ミランンの優勝が確定した。さらに、スイス人のアルフレド・ディック会長がトリノからの移転を主導したことや、民族主義的なイタリア人のグループとの間に対立が起こったことにより、ディックはクラブへの出資を打ち切るとユヴェントスを去った後にFBCトリノ(現トリノFC)の創設に関わることとなる。

 1908年にイタリアサッカー協会が外国人選手の抑制に動くと、ミラン、トリノ、ジェノアに続きユヴェントスも一旦選手権から撤退することとなった。同年にタイトルを獲得した同じピエモンテ州のクラブであるプロ・ヴェルチェッリが台頭すると、以降ユヴェントスは地域グループ予選を突破できず、しばらくタイトル争いから遠ざかることとなる。

 

1920年代

 地域リーグを突破できないシーズンが続いた中、1923年に地元の自動車会社フィアット創業者の息子であるエドゥアルド・アニェッリがクラブを買収し、会長に就任した。当時エドゥアルドはフィアットの経営に深く携わっておらず、自動車レースやサッカーなどのスポーツに熱中していた。好きが高じて、トリノで有力チームだったユヴェントスのオーナーになるが、アニェッリ家との関係は金持ち息子の趣味の延長から始まった。

 1925-26シーズンには21年ぶりに、2度目のイタリア選手権優勝を果たす。ゴールキーパーには、ユース出身でイタリア代表のジャンピエロ・コンビ、プロ・ヴェルチェッリから移籍してきたヴィルジニオ・ロセッタはヨーロッパ有数のディフェンダーとして評価されていた。中盤のヨージェフ・ヴィオーラとガゼルと称されたフォワードのフェレンツ・ヒルツァーはハンガリー人選手であった。ユヴェントスにおける最初の公式監督とされているハンガリー人のイェネー・カロリは、練習と技術の習得に重きを置いた指導をした。北部リーグ決勝では、ボローニャ相手に2戦連続で引き分けたが、3戦目の直前にカロリが心筋梗塞でなくなってしまう。タイトル獲得を誓った選手たちは3戦目を2-1で勝利し、決勝でもアルバ・ローマ相手に2試合で12ゴールを量産し亡き監督に捧げる優勝となった。

 1926-27シーズンに優勝したのはトリノであったが、決勝リーグで対戦したユヴェントスの選手ルイージ・アッレマンディが八百長に関与したとされ、トリノの優勝は剥奪された。

 ユヴェントスは1928年のアムステルダム五輪で結果を残したアルゼンチン代表のライムンド・オルシにいち早く目をつけ、決勝戦翌日には契約条件として破格の10万リラと、フィアット509を提示した。この契約についてはアルゼンチン側から多く批判が寄せられ、イタリア系であることを確認するため実際にプレーしたのは翌シーズンからとなってしまった。1929-30シーズンから1リーグ制の全国選手権が発足し、前年度に成績上位であったユヴェントスは初年度から参加した。

1930年代 - 最初の黄金期

 1930年から35年にかけてユヴェントスは5シーズン連続の優勝を飾り、「クインクエンニオ・ドーロ(黄金の5年間)」と呼ばれるクラブの歴史上最初の黄金時代を築いた。1934年のFIFAワールドカップ・イタリア大会に参加したイタリア代表には、実に9人ものユヴェントス選手を送り込んでおり、主将を務めたGKジャンピエロ・コンビに加えて「オリウンディ」と呼ばれるアルゼンチン出身のFWライムンド・オルシやMFルイス・モンティら帰化選手が活躍した。イタリア大会はムッソリーニがファシズム宣伝のために力を入れており、助っ人としてイタリア系のオルシやモンティがイタリア代表に加わることとなり、ユヴェントスでも黄金時代の原動力となった。

 新任監督のカルロ・カルカーノは、アレッサンドリアからジョヴァンニ・フェッラーリを伴ってユヴェントスにやってきた。イタリア代表でも最高の頭脳とされたフェッラーリとオルシのコンビは抜群で、フェッラーリのロングパスが効果的に働き、オルシはチーム総ゴール79のうち18ゴールを記録した。わずか4敗で2位のローマに4ポイント差をつけて3度目の優勝を果たすと、1931-32シーズンもエドゥアルド・アニェッリは改革の手を止めず、再びアレッサンドリアからルイージ・ベルトリーニを獲得した。アルゼンチンから獲得したモンティが太りすぎでダイエットが必要だったり、自分にパスを出さないと不満に思ったオルシがレナート・チェザリーニを外す要求をするなどトラブルがあったが、それでも前年より総得点を10伸ばし連覇を達成した。

 フィアットの経営哲学をクラブ運営に活かし、アニェッリ家の強い経済基盤を基にしたチーム作りが行われたが、トリノのユースチームに所属していたフェリーチェ・ボレルを発掘し無名選手も登用した。契約のトラブルで前年にチームに加わるはずだったピエトロ・セルナジョットとオルシ、ボレルのトリオは協力で、前年から失点を改善しながらゴール数を維持し2位のアンブロジアーナ・インテルに8ちもの勝ち点差をつけて3連覇を達成した。1933-34シーズンにはボレルが2年連続で得点王に輝き、4連覇を達成すると守護神のコンビが現役引退した。1934-35シーズンの優勝でユヴェントスは5連覇を達成するものの、シーズン中盤に監督が交代しオルシもシーズン終了前にアルゼンチンに帰国した。最終節の時点でアンブロジアーナ・インテルと勝ち点が並んでいた優勝はサイクルの終わりを象徴し、1935年6月15日にエドゥアルド・アニェッリが飛行機事故で亡くなると栄光の時代は終わりを告げた。エドゥアルドの死によってアニェッリ家との関係が途切れることはなかったが、財政的に問題を抱え黄金期のメンバーを維持することはできなかった。
 1937-38シーズンはインテルと最後まで優勝争いをする者の、格下であるリグーリアに敗れ勝ち点差2で優勝を逃すこととなった。一方、コッパ・イタリアではトリノを破り初優勝を果たした。それ以外の4シーズンでは優勝争いに絡むことはできなかった。

1940年代
 1940年代の主役は「グランデ・トリノ」と称された地元のライバルチームのトリノであった。1940-41シーズンのコッパ・イタリアを制覇したヴェネツィアの中心選手であるヴァレンティーノ・マッツォーラとエツィオ・ロイクの争奪戦に敗れ、両選手はトリノの栄光の中心選手となる。また、トリノはユヴェントスから、ボレル、グリエルモ・ガベット、アルフレド・ボドイーラを引き抜き、強力なチームつくりを進めていった。トリノの5連覇中は2-4位の好成績を残すが、1942-43シーズンは勝ち点差7、1946-47シーズンの2位でも勝ち点差10をつけられてしまった。1947年にエドゥアルド・アニェッリの息子ジャンニ・アニェッリが会長に就任し、再びアニェッリ家が実権を握ることになった。

 スペルガの悲劇の翌年、不幸にも有力チームがいない1949-50シーズンの選手権を制したのはユヴェントスであった。拡大された外国人枠にはデンマーク人のジョン・ハイセン、カール・プラエスト、アルゼンチン人のリナルド・マルティーノが加わり、イタリア人選手も1947-48シーズン得点王のジャンピエロ・ボニペルティをはじめ一流選手がそろっていた。イングランド人監督のジェス・カーヴァーは、母国からゾーンディフェンスを持ち込み守備陣から素早く前線にボールを配給させ、攻守にハードワークするトルナンテと呼ばれるサイドのポジションを採用し、攻守のバランスをとった時代の先駆けとなるサッカーを展開した。

 

1950年代

 オリンピックでの北欧の躍進やハイセンの活躍により、ユヴェントスとミランはヨハネス・プロエゲルを巡って争奪戦となる。友人であるハンセンを交渉の席に派遣することでミランを出し抜いたユヴェントスは、代わりに獲得寸前だったグンナー・ノルダールを融通した。目論見とは違いノルダールはスウェーデン・トリオを形成し、得点王の活躍でミランを導き、デンマーク・トリオが不発だったユヴェントスは1950-51を3位で終えた。厳しい練習から選手と確執を生んだカーヴァーが監督の座を追われ、後を継いだベルトリーニも1951-52シーズンの途中に退任する。首位のチームを率いることになったジョルジョ・サロージは戦術的に柔軟性を持ったボニペルティを軸に据え、選手権を制しスクデットを奪取した。

 1952-53、1953-54シーズンはわずかながらインテルに及ばず2年連続の2位だったが、1954年から57年まで中位に沈み降格の危機さえあった。1955年にジャンニ・アニェッリが会長から退いたが、後任の杜撰な運営により1年でウンベルト・アニェッリに後退された。再び手綱を握ったアニェッリ家は再建にあたり、ジョン・チャールズをリーズから1億1500万リラで、リーベル・プレートに所属していたシヴォリの獲得にはさらに1億9000万リラを費やした。「魔法のトリオ(イル・トリオ・マジコ)」と称されたボニペルティ、シヴォリ、チャールズの攻撃陣と若手選手たちが融合した勢いはすさまじく、2位に8ポイント差をつけ10度目の優勝を達成した初めてのクラブとなった。1959-60シーズンには、全得点の92のうち50点をシヴォリとチャールズが記録しており11度目の優勝を果たした。

 性格が評価されていたチャールズとは対照的にシヴォリの気性は激しく、リュビサ・ブロチッチはシヴォリとの確執で解任となり、ボニペルティを冷遇しシヴォリを擁護した南米派閥のチェザリーニはアニェッリ家の意向とそぐわずティにカルディれくいたーを解任され、内部の状況は決して芳しくなかった。ユヴェントスは連覇を達成するものの、前年ほどの圧倒した結果ではなかった。その後スクデットから遠ざかったユヴェントスでは、1964-65シーズンにパラグアイ人であるエリベルト・エッレーラが就任するまで監督交代が相次いだ。エリベルト・エッレーラは偶然の一致か「魔術師」と称されたインテルの監督エレニオ・エレーラと名前だけでなく手腕も通ずるところがあり、規律を重要視しチームを変革した。チームのエースだったシヴォリとはかみ合わずナポリへ移籍する要因となるものの、就任から3年目の1966-67シーズンに待望の優勝を果たした。

1930年から1960年まで10回以上の国内優勝を果たすユヴェントスだったが、ミランとインテルが欧州カップ戦で2度ずつ優勝しているのとは対照的にタイトル獲得までは至らなかった。

1970年代前半

 エッレーラの後任に相応しい監督はなかなか見つからず、選手としてグランデ・インテルで活躍したアルマンド・ピッキにようやく落ち着いた。ローマから獲得したファビオ・カペッロ、ルイジアーノ・スピノージ、ヴァレーゼからロベルト・ベッテガ、パレルモからフランコ・カウジオが復帰しメンバーがそろいつつあった。1970-71シーズン半ばにピッキに不治の病が発覚すると、ズデネク・ゼーマンの叔父のチェストミール・ヴィツパーレクを下部組織のコーチから昇格せざるを得なかった。1971-72シーズンは前半の折り返し地点で首位に立つものの、ベッテガの病、ヴィツパーレクの身内の不幸と災難が相次ぐ。だが心を折れなかったユヴェントスは終盤戦を戦い抜き、2位のミラン、トリノと僅か勝ち点差1でピッキらに捧げる優勝を果たした。

 1972-73シーズンは、当時最高の評価を得ていたディノ・ゾフをナポリから獲得し守備の穴を埋めることに成功する。しかし、前半戦終了時点でラツィオとミランが上回り、ユヴェントスは勝ち点で5ポイント離されている状態だった。また、チャンピオンズカップの両立とワールドカップ予選にイタリア代表メンバーが駆り出されていたこともあり、残り6節時点で優勝の可能性はほぼ閉ざされていた。しかしここから怒涛の追い上げを見せたユヴェントスは、最終戦のローマンに終了間際の逆転ゴールで勝利し、最終節で首位ミランとの1ポイント差をひっくり返し連覇を達成した。チャンピオンズ・カップの決勝に初進出したユヴェントスはコッパ・イタリアも制し3冠がかかり、GKにゾフ、MFにカペッロとフランコ・カウジオ、FWにジョゼ・アルタフィーニ、ピエトロ・アナスタシ、ベッテガの3トップと優勝が期待できるメンバーがそろっていたが、決勝の相手は3連覇を達成する黄金時代のアヤックス・アムステルダムで、試合開始わずか5分にヨニー・レップのゴールで失点すると、そこからスコアは動かず0-1で敗戦し初優勝を逃した。トンマーゾ・マエストレッリのラツィオに及ばず2位で1973-74シーズンを終えると、翌1974-75シーズンっではヴィツパーレクが監督から身を引きオブサーバーとしてクラブに関わることになり、1959年から2年連続優勝を果たしたカルロ・パローラに再び監督を任せることになった。前年に加入したクラウディオ・ジェンティーレに加え、オスカル・ダミアーニ、のちにクラブのレジェンドになるガエターノ・シレアを補強したユヴェントスは16度目の優勝を果たす。敗北した試合は2位ナポリよりも多く、得点・失点においても優れた成績ではなかったが、シーズンを通して安定化のある戦いを続けた。1975-76シーズは前シーズンの調子のまま首位で3月を迎えるが、ミラン戦の引き分け後の3連敗で5ポイントのリードを失い、地元のライバルであるトリノに27年ぶりの優勝を許してしまった。


1970年代後半~1980年代前半 - トラパットーニ政権の黄金期

 ジョバンニ・トラパットーニが監督に就任した1976年から退任する1986年までの10年間に、セリエAでは6度の優勝、1976-77シーズンにクラブ初の欧州タイトルとなるUEFAカップを優勝しユヴェントスは多くのタイトルを獲得した。

 37歳でユヴェントスの監督に就任したトラパットーニは、ミランでDFとして活躍した後にネレオ・ロッコの下で経験を積んだ若手監督であった。チームの中心選手だったアナスタージやカペッロを放出するものの、引き換えに獲得したロベルト・ボニンセーニャ、ロメオ・ベネッティがその穴を埋め安定感のあるチーム構成になった。1976-77シーズンは勢いのあるユヴェントスとトリノが他クラブを15ポイント以上引き離し優勝争いをしており、最終節の勝利により1ポイント上回ったユヴェントスが監督就任1年目での優勝を果たした。スクデット獲得の直前にはUEFAカップの決勝に進出し、アウェーゴールの差でアスレティック・ビルバオを上回り欧州カップ戦で初優勝を果たした。翌シーズンはアントニオ・カブリーニの台頭というポジティブな要素があったものの、ピエトロ・パオロ・ビルディスら市加入選手は定位置をつかむまでには至らず、地力を押し通した2連覇となった。調子の上がらないユヴェントスはその後2シーズンを3位、2位と順位を落とし、その後の2シーズンを再び連覇する。1980年からの2回の優勝にはいくつか不可解な判定があったと指摘されており、特に1981-82シーズン最終節でユヴェントスがPKを得て優勝したことは、1ポイント差で2位になったフィオレンティーナが長く抱く遺恨の始まりとされている。

 1980年に解禁された外国人選手の登録により、1982-83シーズンにはズビグニェフ・ボニエク、ミシェル・プラティニらと契約しプラティニはさっそく得点王に輝く。ワールドカップの優勝メンバーにユヴェントスから6人も選出されていたこともあり、コンディション面からリーグでは振るわず2位に甘んじるものの、欧州の舞台では2度目のチャンピオンズカップ決勝に進出した。

メンバーにはイタリア代表のディノ・ゾフ、クラウディオ・ジェンティーレ、ガエターノ・シレア、アントニオ・カブリーニ、マルコ・タルデッリ、パオロ・ロッシ、ロベルト・ベッテガがそろっていたが、ハンブルガーSVに敗れまたしても優勝を逃した。この敗戦で奮起したユヴェントスは、翌年UEFAカップウィナーズカップを制す。この勝利で出場権を得たUEFAスーパーカップでは、チャンピオンズリーグ決勝で相対するリヴァプールとの前哨戦となり、2-0で勝利している。

 1983-84シーズンは前シーズンと同様にユヴェントスとローマの一騎打ちの構図となったが、シーズン中盤過ぎからは首位を明け渡すことなくスクデットを獲得した。また、プラティニが2年連続で得点王に輝いた。1984-85シーズンにも得点王に輝いたプラティニは3年連続でバロンドール受賞となったが、主力の故障でリーグでは6位と大きく順位を落とした。残るチャンピオンズカップ獲得へ目標を定めると、準決勝でボルドーに競り勝ち、ヘイゼル・スタジアムで行われる決勝へ駒を進めた。決勝ではプラティニのPKゴールを守り切り、クラブ創設から88年目で初の欧州チャンピオンに輝いた。しかし、試合前にはリヴァプールサポーターを原因とする群衆事故で39人が亡くなっており、心から喜べる戴冠にはならなかった。

 1985-86シーズンは、ボニエクとロッシを放出する一方、ミカエル・ラウドルップをラツィオから呼び戻し、トリノからはアルド・セレーナを獲得した。セレーナの獲得にはサポーターの反発もあったが、シーズンを通して21ゴールと活躍した。残り2節で勝ち点で並んでいたローマとの首位争いを制し22度目の優勝を果たした。同年末にはトヨタカップでアルゼンチンのアルヘンティノス・ジュニアーズと対戦し、2-2で決着がつかずPK線までもつれ込んだものの、GKのタッコーニが2本セーブする活躍で世界一に輝き、この勝利により欧州クラブが獲得できる国際タイトルを全て獲得した初のクラブとなった。後半にはプラティニのテクニカルなボレーシュートのゴールが取り消されており、プラティニが芝生に寝転んで抗議している有名な写真はこの時に撮られたものである。

 トラパットーニ監督時代の10年間で、セリエAで6度の優勝、コッパ・イタリアで2度の優勝、チャンピオンズカップ、カップウィナーズカップ、UEFAカップの欧州3大タイトルを制覇した。

1980年代後半~1990年代前半 - 低迷期

 トラパットーニがインテルの監督に就任し、プラティニが引退したことで黄金期が終わり、マラドーナ擁するナポリやベルルスコーニが会長に就任したミランが台頭するとユヴェントスは長い低迷期に入る。クラブOBであるぞゾフに監督を託すも状況は好転せず、プラティニの代わりを期待されたイアン・ラッシュが振るわない等、補強でも活躍する選手を獲得できなかった。1989-90シーズンにはコッパ・イタリアとUEFAカップを制する者の、ルイージ・マイフレディに監督の座を譲ることとなる。UEFAカップ決勝の数日後には、対戦相手のフィオレンティーナから花形選手のロベルト・バッジョの引き抜きに成功したが、7位と結果を残すことが出来なかったマイフレディは1年で解任となり、黄金期の監督だったトラパットーニに再び指揮を委ねた。ジャンルカ・ヴィアッリ、ディノ・バッジョ、ファブリツィオ・ラヴァネッリ、アンジェロ・ペルッツィ、アントニオ・コンテらを補強し優勝争いが出来るまでチームの力が戻り、ディノとロベルト二人のバッジョの活躍により再びUEFAカップを制するものの、時代遅れとなったカテナチオではアリゴ・サッキのゾーンプレスで革新を起こしたミランに及ばず、1985-86シーズン以来のスクデットまでは至らなかった。


1990年代後半 - リッピ政権の黄金期

 体制の刷新が行われ、副会長にロベルト・ベッテガ、GMにルチアーノ・モッジ、取締役にアントニオ・ジラウドが就任し、監督にはマルチェロ・リッピが招聘された。チーム編成も見直され、アンドレアス・メラー、ジュリオ・セザール、ディノ・バッジョらスター選手を放出した一方、チロ・フェラーラ、ディディエ・デシャン、パウロ・ソウザら黄金期を象徴する選手たちが1994年に加入しチームの強化が図られた。前シーズンに加入したアレッサンドロ・デル・ピエロも主力として定着し、強力なFW陣が得点を量産しリッピ体制初年度でスクデットを獲得した。リッピはトラパットーニの守備的なメンタリティを捨て、前線からハイプレスを仕掛ける攻撃的なサッカーへ転換を図り、守備にも貢献できる若いデル・ピエロをチームの主軸としていくことに決めたユヴェントスは、1995-96シーズンにミランから届いたバッジョへのオファーを受け入れた。翌シーズンはミランに8ポイント差を離されて優勝を逃すものの、チャンピオンズリーグではレアル・マドリード、ナントを下して決勝に進出した。決勝の相手は前年王者でありシーズンで52戦無敗の強さを誇るアヤックス・アムステルダムだったが、ラヴァネッリのゴールで1-1となったPK戦で勝利し、2度目の欧州制覇を果たした。副会長のロベルト・ベッテガは、「1985年の優勝を祝えなかった。この時を待っていた」と喜びを口にした。更に11月には東京の地で再び世界一の称号に輝いている。

 1996-97シーズンには、更にジネディーヌ・ジダン、パオロ・モンテーロ、マルク・ユリアーノ、クリスティアン・ヴィエリらが加入しチームが強化された。ライバルであったミランが大失速し、パルマに競り勝ったユヴェントスはスクデットの奪還に成功する。翌シーズンはデル・ピエロとインザーギの「デルピッポ」コンビとジダンの組み合わせでゴールを量産し、連覇を果たしたリッピ監督は4年で3度のリーグ優勝を勝ち取った。ボスマン判決後で遺跡が活発になり優勝メンバーが様変わりしたものの、勢いは国内に留まらず攻守にアグレッシブなサッカーの質を高めてチャンピオンズリーグ決勝に3年連続で進出した。事前予想では有利とされていたものの、流れを掴めなかったユヴェントスは2年連続で決勝は痛いとなった。

 独立採算体制への移行で選手の入れ替わりが激しかったものの、モッジは監督のサッカーに適合する選手の獲得でリッピをサポートし、4年連続でタイトルを獲得しクラブ史上でも有数の黄金期となった。

2000年代初頭

 1998-99シーズンは、11月8日、第8節のウディネーゼ戦において、後半ロスタイムにデル・ピエロが靭帯損傷の大怪我を負い、直後に同点弾を決められ首位から陥落すると、インザーギやジダンら主力も怪我に苦しみ7位でシーズンを終えることとなった。20節のパルマ戦に敗北すると、リップは急遽辞意を口にしそのまま監督の座を降りてしまう。後任にはカルロ・アンチェロッティが選出されたが、サポーターからの歓迎は受けられなかった。

 アンチェロッティが留任して迎えた1999-00シーズンは、ジャンルカ・ザンブロッタ、ファン・デル・サールが加入したが、振るわなかった前シーズンのメンバー構成に大きな変化は無く、メディアからも優勝候補とはみられていなかった。安定感のある守備に支えられ、ジョジョに順位を上げ前半戦を首位で折り返すと、スクデット争いはラツィオとの一騎打ちとなった。中盤戦の連勝で勢いに乗ると、残り8試合で2位ラツィオとの差は9まで広がり、メディアもユヴェントスの優勝を有力とした。しかし、直接対決の敗北を含む7試合で3敗を喫すると、最終節のペルージャ戦にも敗北し最後の最後で1ポイント上回られ優勝を逃した。
 2000-01シーズンは、戦力は十分と判断し移籍市場では職局的で、層に厚みを持たせるためダヴィド・トレゼゲらを獲得した。記者の事前予想ではタイトル獲得へのリベンジが期待されていたものの、コッパ・イタリアで早くも3回戦で敗北すると、チャンピオンズリーグでもグループリーグで最下位になり2つのタイトル争いから脱落してしまう。11月初めに残されたタイトルがリーグだけというのは19年ぶりとなる不振で、サポーターは練習場やスタジアムで批判の声を上げた。移籍市場で積極的に動き、悪テル・サムエルやガブリエル・バティストゥータらを獲得したローマほどの勢いはなかったが、10節終了時点で2位につけスクデット争いに望みをかけた。第29節は首位ローマと直接対決となり勝ち点差6を縮めるチャンスであったが、中田英寿が2得点に絡み終了間際に同点となり追撃に失敗する。最終節の弱点優勝に望みをかけたがかなわず、2年連続で2位という結果でアンチェロッティは監督の座から退くこととなった。アンチェロッティには次シーズンの契約が残っていたが、リッピの監督就任を得たクラブから最終節直前に解雇通知を受け取ることなった。
 リッピ時代の補強の成功とは打って変わって、アンチェロッティが就任してから獲得した選手がなかなか主力として定着せず、ジダンやデル・ピエロのような代えの利かないタレントの調子に左右され続けた。アンチェロッティは「ユヴェントスで監督を務めることは楽しいか?」というインタビューに「ノー」と答えており、ファミリーのようだったパルマ監督時代と比べてユヴェントスは会社のようだったと回想している。

2000年代前半 第二次リッピ政権

 2001年5月6日のローマ線直後、モッジはリッピへ新シーズンの監督を打診する。バルセロナからのオファーも受け取っていたリッピだったが最終的にユヴェントスを選んだ。移籍市場では従来の堅実な方針を転換し、チームの大改革に取り組んだ。フィリッポ・インザーギとジネディーヌ・ジダンの遺跡により巨額の資金を獲得すると、リーグ屈指の選手であるパベル・ネドベド、ジャンルイジ・ブッフォン、リリアン・テュラムを引き抜いた。優勝経験監督が帰還したものの、主力級選手の入れ替えにより評価が未知数なシーズンスタートとなった。開幕節4-0で勝利し不安を吹き飛ばしたかに思えたのは束の間で、出場停止処分が解けたダービッツとネドベドの相性が嚙み合わず、9月15日から2ヶ月勝利することが出来ない不調で、第14節時点で首位インテルと9ポイント離された6位に沈んでいた。しかし後半戦になると、新戦力のネドベドがトップ下のポジションを掴み、トレゼゲ、デル・ピエロと強力な攻撃陣となってからは連勝で上位に浮上する。残り5試合の時点で首位と6ポイント差があったが、最終節までの5連勝で1ポイント上回り大逆転優勝を果たした。

 続くシーズンではリーグ最少失点を記録した守備陣を維持し、中盤にマウロ・カモラネージ、トレゼゲが負傷した攻撃陣にマルコ・ディ・ヴァイオが加わった。安定感のある守備で前半戦を1敗で乗り切ると、中盤戦の11試合で10勝1分と勢いに乗り、最終節を待たずに優勝が決定するのは5年ぶりのことであった。FWの調子が万全とは言えないシーズンだったが、リッピは攻守に切り替えが早いチーム戦術を浸透させ、その中でネドベドは獅子奮迅の活躍を見せた。チャンピオンズリーグでは決勝に進出し、ACミランと初のイタリア対決となった。リーグ優勝の立役者のネドベドを出場停止で欠き、トゥドール、ダービッツの故障で効果的な交代策を講じれず、メディアによって「史上最も退屈なファイナル」「退屈な試合」と形容されたこの試合は延長含めた120分でスコアが動くことはなかった。PK戦ではブッフォンが2本のシュートをセーブする者の、相手GKジータから2本のゴールしか奪えず、あと一歩のところで優勝を逃すこととなった。
 2003-04シーズンは連覇を達成したメンバーには大きな変更は無く、開幕前から3連覇に期待が寄せられた。しかし11節、12節の連敗で順位を落としたことに加え、エドガー・ダービッツとの関係が悪化し冬にバルセロナに放出すると、守備に綻びが出始め最終的に42失点を記録してしまう。前年のチャンピオンズリーグにおける敗戦で「来年このタイトルを獲得できなければユーべを去る」という発言をしていたリッピだが、最低限のノルマであるチャンピオンズリーグ出場権を獲得すると退任を発表し、第2次リッピ政権は幕を閉じることとなった。

2004-06 カペッロ政権

 後任監督としてデシャンが有力とされている中、2004年5月27日にローマからファビオ・カペッロを引き抜いたことが急遽発表された。カペッロの教え子であるエメルソンをローマから連れてくることに成功するものの、新監督を迎えるための即戦力補強の動きは見られなかった。しかし、移籍期間最終日である8月31日にファビオ・カンナヴァーロ、ズラタン・イブラヒモビッチの2選手の獲得を発表する。特にイブラヒモビッチの交渉は水面下で行われており、電撃的な移籍ニュースとなった。前シーズンの課題であった守備の不安定さ、ダービッツが抜けた穴、怪我がちのトレゼゲに新戦力が完全な解答となり、新体制初年度での優勝を果たした。

 2005-06シーズンは、プレシーズンマッチでブッフォンが負傷するアクシデントがあったものの、優勝メンバーにパトリック・ヴィエラが加わったことでチームが強化され、セリエA記録となる開幕9連勝という最高のスタートを切った。ターンオーバーを好まないカペッロの方針で、シーズン中盤には選手に疲労が見られたが、シーズンを通して敗戦は1試合のみで、勝ち点91を積み上げ2連覇を達成した。

 シーズン末の5月初旬にGMのモッジ、取締役のジラウドらユヴェントス経営陣が首謀したカルチョ・スキャンダルの問題が噴出し、FIGCによる裁判により2004-05、2005-06シーズンの優勝のはく奪とセリエBへの降格という判決が下された。この判決により主力選手のエメルソン、カンナヴァーロ、テュラム、ザンブロッタ、ヴィエラ、イブラヒモビッチが退団し戦力を大きく失うことになった。

 

セリエBでの戦い

 主力選手が多数退団するなかでチームの中心であるデル・ピエロはチームへの残留を表明。これに呼応したのかブッフォン、ネドベド、トレゼゲも残留を表明した。スキャンダルでの厳しい処分により経営陣は刷新を迫られ、それまでサッカー界に関わりのなかったジョヴァンニ・コボッリ・ジッリが会長に、ジャン=クロード・ブランが代表取締役に就任した。勝ち点がマイナス17の状態でセリエBを戦わなければならない状況下でクラブOBのデシャンに監督を託すと、開幕戦引き分け後の6連勝で8節には早くも借金を返済し、カルチョポリの再審議により勝ち点マイナスは9まで軽減されることになった。2007年1月20日には、デル・ピエロの500試合目となったバーリ戦に勝利し単独首位に立つと、2007年5月19日、3節を残し1年でのセリエA復帰を決めた。セリエBは所属22クラブ、6月末までシーズンが続く過酷なリーグであったが、セリエBでの戦いについて、ブッフォンは「ファンと触れ合うことと、プレーすることの喜びを再発見した」とポジティブに振り返っているが、ネドベドは「セリエBでの1年は厳しく、困難で、長く、骨の折れる戦いだった」と述べてる。また、20ゴールで得点王を獲得したデル・ピエロは、降格した都市にもかかわらず”もう一度体験したい時”に2006年を挙げている。一方、カモラネージやサラジェタら数人の選手がデシャンと問題を抱え、1年での復帰に貢献したデシャンはクラブを去ることとなった。


安定感のない新体制

 2007年6月4日、新監督にクラウディオ・ラニエリが就任した。開幕戦の予想では、UEFAカップ出場権獲得も難しいだろうという声もあったが、2008年4月12日のミランとの直接対決を制しチャンピオンズリーグ出場権をほぼ手中に収めることになった。シーズンは20勝126敗で3位で終え、セリエA復帰1年目、また夏の補強失敗を考えると奇跡的な復活になった。シーズン前半はベンチスタートも多かったデル・ピエロだが、21ゴールのうちラスト8試合で10ゴールを決める勢いで33歳で初のセリエA得点王に輝いた。ユヴェントスとしても2年連続の得点王輩出となった。

 翌シーズンは開幕から常に10人前後の負傷者が発生し、前シーズン41点を決めたトレゼゲとデル・ピエロも、トレゼゲは膝の手術で離脱、デル・ピエロは開幕5試合でノーゴールと勝ちきれない試合が続き、11位まで順位を落とした。一時は首位インテルと3ポイント差まで迫るも、徐々に順位を落としチャンピオンズリーグ出場権が危うくなってきたユヴェントスは、2009年5月18日、ラニエリの解任を発表した。ユヴェントスがシーズン途中に監督を解任するのは40年ぶりのことだった。ユースチームを率いていたチロ・フェラーラが暫定監督に就任し、シエーナ戦に勝利しチャンピオンズリーグ出場を確定させた。最終節のラツィオ戦は、退団が決まっていたネドベドのラストゲームとなった。327試合に出場したネドベドは最後の試合でもアシストを記録し勝利に貢献、21勝6敗11分の2位でシーズンを終了した。

 新シーズンより正式に監督に就任したフェラーラは、前線からのプレッシングとショートカウンターを基本とする戦術でリッピ時代を彷彿とさせ、サンプドリアと並び首位に立つ勢いを見せた。しかし、その後3戦で1敗2分と失速し3位まで順位を下げてしまうと、年明け後はさらに故障者も増え、ホーム3連敗で6位まで順位を落とす。コッパ・イタリアの準々決勝、インテル戦に敗れた翌日の2010年1月28日、フェラーラ監督の解任と後任にアルベルト・ザッケローニが就任することが発表された。ザッケローニは、就任2戦目で得意の3バックを導入するが、初勝利は3戦目のジェノア戦となり、ベッテガは「良い監督だが、魔法の杖は持っていない」と皮肉交じりのコメントを残した。シーズンは7位で終了し、なんとかヨーロッパリーグ予選枠を得たものの、38戦16勝15敗7分という結果は過去数シーズンでも最悪の成績で、配線数、総得点、総失点では、20チーム制になってから最も悪い記録となった。

 2009年から会長に昇格したブランは、2006年当時「スクデットを争うのに3年かかる」と見込んでいた。1年でセリエAに復帰し2年連続で好成績を残すなど順調に進んでいると思われたが、経営陣に強力なリーダーシップを発揮する人物が存在せず、2年連続でシーズン途中に監督が交代し盤石な基盤を整えることが出なかった。モッジの後任でスポーツでイレクターに就任したアレッシオ・セッコは、2004年から2年間チームマネージャーを務めたが、記者からは「モッジのカバン持ち」として知られていた。アマチュアのセッコにユヴェントスの重職は荷が重く、元上司のモッジに助言を求めることはイメージ悪化のためクラブから禁じられ名門復活のための的確な補強が出来ず、特に目玉補強だったジエゴとフェリペ・メロの不調に悩まされた。2009-10シーズン終了後、オーナーであるアニェッリ家は運営体制の改革に踏み切り、プロジェクトは4年で幕を閉じることとなった。

アンドレア・アニェッリの会長就任

 アニェッリ家当主のジョン・エルカーンは、より深く経営にコミットするため、1956年から5年間会長を務めたウンベルト・アニェッリの息子であるアンドレア・アニェッリに会長をゆだねた。移籍市場やチーム強化のプロがいなかったことを反省し、サンプドリアでゼネラルマネージャーを8年間務めたジュゼッペ・マロタを引き抜いた。マロッタはセリエCからキャリアを積み上げてきた叩き上げで、サンプドリアをセリエBからチャンピオンズリーグ出場まで引き上げた実績があった。また、限られた予算で結果を出すことからも、イタリアで高く評価されていた。マロッタはサンプドリアで仕事を共にしたルイジ・デルネーリを新監督に任命し、右腕のファビオ・パラティチも引き抜いた。デルネーリ監督は、2000年代前半にミラクル・キエーヴォと称されたチームを率いていた頃から一貫して、スピードに乗ったサイド攻撃を生かした速攻攻撃型サッカーを志向していた。マロッタは、サイドを主戦場とするシモーネ・ペペ、ミロシュ・クラシッチ、ホルヘ・マルティネスらを補強し、監督の戦術を後押しした。

 第5節から第17節まで7勝6分という負けなしの成績で一時は2位まで順位を押し上げるものの、クアリャレッラがシーズン終了の大怪我を負ったりと浮き沈みが激しく、第34節の引き分けでチャンピオンズリーグ出場が絶望的になり、15勝10敗13分の7位でシーズンを終えヨーロッパリーグ出場も逃した。2011年5月21日、デルネーリの解任が発表され、5年で5度目の監督解任と継続性の無さが露わになった。シーズンの不振については中心選手の負傷と補強選手の不調が指摘されている。新加入のレオナルド・ボヌッチはしばしば失点に絡んだが、冬に加入したアンドレア・バルザーリと合わせて後に「BBC」と呼ばれる守備ユニットの礎が誕生したシーズンとなった。

コンテ政権での3連覇

 カルチョポリによりいち早く体制の一新を迫られたユヴェントスは2011年に開場した新スタジアムで収益を改善し、オーナーの資金力に頼り競争力を落としていくミランやインテルとは違い、長期的な視点でチームを強化しカルチョポリ後の低迷から抜け出すため新しいサイクルを築いていった。

 2011年5月31日、現役時代に「闘将」と呼ばれ、ユヴェントスで13シーズンプレーした「Mr.ユーべ」ことアントニオ・コンテが新監督として就任した。失いかけていた名門の誇りと勝利に対する精神をチームに蘇らせることを期待され、コンテ本人も「ユヴェントス・スピリットを取り戻す」ことを第一目標に挙げた。不信の前シーズンを受けて増資がなされ、フロントも積極的な補強を宣言し、ステファン・リヒトシュタイナー、アルトゥーロ・ビダル、ミルコ・ヴチニッチを獲得し、ミランで契約延長に至らなかったアンドレア・ピルロをフリーで獲得した。サイド攻撃を軸にした4-2-4と、ピルロ、マルキージオ、ビダルのコンビネーションを生かす4-3-3を使い分け開幕2連勝を飾る。4-3-3のシステムが固まり、迎えた第13節ラツィオ戦は首位攻防戦で、試合をコントロールしたユヴェントスが1-0で勝利し首位で前半戦を終えた。ユヴェントスが冬の王者になるのは、2005-06シーズン以来のことであった。前半戦の戦いについて、使い慣れていた4-2-4の布陣より、4-3-3が機能すると分かると即座に戦術変更を決断し、デル・ピエロのようなバンディエラをベンチに置くことも躊躇しないチームマネジメントも評価された。「スクデット決定戦」と喧伝された第25節のミラン戦から、降雪で延期された第23節も含み4戦連続で引き分けとなり、勝利より引き分けの方が多くなってしまうとコンテは無配を強調したが、首位ミランとの差が広がり始めていた。ミランを追う形となったユヴェントスは、第28節の快勝を皮切りに、4試合で12得点、523分間無失点継続と、怒涛の4連勝で首位に返り咲いた。連勝は8まで伸び、第37節の勝利で9シーズンぶりの優勝が決定した。就任1年目で優勝を達成したコンテは、試合終了後のインタビューで「今日、ユヴェントスが返ってきた」と語った。シーズン前半の10月18日の株主総会で、アニェッリ会長自らデル・ピエロとの契約が終了することを明言しており、シーズン最終試合がユヴェントス最後の試合となった。前半28分に得点を決め、後半57分の交代では満員のスタンディングオベーションに見送られた。最終成績は38戦23勝15分の無敗での優勝となった。総失点の20は、セリエAにおける最少失点記録更新となり、「20人」からゴールが間れたことも最多得点者数の記録更新となった。

 2012-13シーズンはチャンピオンズリーグ参戦のため、戦力補強としてウディネーゼからクワドォー・アサモアとマウリシオ・イスラを獲得し、マンチェスター・ユナイテッドからポール・ポグバを獲得した。一方コンテは、シエナ監督時代にはお蝶の事実を知りながら報告を怠ったとして、10ヶ月の資格停止処分が下された。コンテ不在の間、大幸監督としてアシスタントコーチのマッシモ・カレーラが指名された。第8節のナポリ戦から5連勝で迎えたイタリアダービーで敗北すると、2011年から続いていたリーグ無敗記録は49でストップしてしまった。資格停止処分が4ヶ月に軽減されたコンテが第16節からベンチに復帰し、リーグでも2位と勝ち点8差の首位で年内最終戦を終えた。年明けは、ピルロ、マルキージオ、キエッリーニら主力の故障でクオリティが低下したが、2位との直接対決となった第27節のナポリ戦では、引き分けという結果で差を縮めさせなかった。ナポリ戦以降8連勝で勝ち点を積み上げ、2013年5月5日に3節を残し2連覇を達成した。最終成績は、27勝6分5敗であり、開幕から1度も首位の座を譲ることがなかった。

 前年に4-3-3で固まったとみられていたフォーメーションだが、コンテは改善の手を緩めず3バックを導入する。見た目上は3-5-2であるが、より攻撃的にするためサイドの選手を前線に押し上げ、4-2-4の4トップの考え方を生かした3-3-4という布陣に辿り着く。また、3バックの導入は移籍当初から守備のミスで批判されていたボヌッチの負担を軽減し、長所であるビルドアップ能力をより生かせるようになった。2トップにはヴチニッチとマトリを起用し、前線からの積極的なプレッシングを要求することでインテンシティが高まった。相手を選ばず常に主導権を握っていく「強者のスタイル」が浸透したシーズンとなり、コンテも「今季のチームは昨季より強かった」と讃えている。

 ガゼッタ・デロ・スポルトに補強の必要性が指摘されていた大型FWには、2013年1月に加入内定が発表されていたフェルナンド・ジョレンテに加えマンチェスター・シティからカルロス・テベスが加入した。前シーズンの3-5-2を土台にしながら、理非とシュタイナーが担っていた右ウィングのポジションをヴチニッチに変えることで、より重心を前に置いた3-3-4のフォーメーションを完成を目指した。ハードワークが要求されるコンテの2トップの下で、手べ巣は開幕1ヶ月でシステムに適応し、DFとの駆け引きやポストプレーでの組立に参加しながら6試合4ゴールの活躍ぶりを見せた。開幕8試合で無得点試合が無いという攻撃の充実ぶりながら、前シーズンから課題であるチャンピオンズリーグとの両立には悩まされた。それでも新戦力のジョレンテがレギュラーに定着し攻撃にバリエーションが増え、序盤戦に勢いのあったローマ、ナポリの両クラブが停滞している間に6連勝で首位に躍り出た。マルキージオの怪我で出場機会が回ってきたポグバも、ビダルとのコンビで中盤を制圧しており、ヨーロッパでも屈指のレベルにあると評価された。リーグ戦では、38戦33勝3分2敗という成績で通算30回目の優勝を果たし、3連覇を達成した。12連勝1回、7連勝2回とシーズンで大崩れすることがなく、勝ち点「102」はセリエだけでなく欧州主要リーグの最多勝ち点記録を更新し

ホーム19試合すべてで勝利する圧倒的な強さを示したシーズンとなった。

 国内では圧倒的な強さを見せ、3年間の114試合のうち敗北したのは7試合だけだった。しかし欧州の舞台では結果が振るわず、ヨーロッパリーグでもホームスタジアムで行われる決勝に辿り着けなかった。コンテもフロントもチャンピオンズリーグ制覇の気持ちは同じだったが、積極的な補強を望むコンテに対してフロントは健全な財政を優先し、納得のいかないコンテはサマーキャンプ初日に電撃辞任した。

アッレグリ政権の黄金期

 アントニオ・コンテ辞任の翌日に後任としてマッシミリアーノ・アッレグリの就任が発表された。アッレグリは2010-11シーズンにミランでスクデットを勝ち取っているものの、ピルロを冷遇しユヴェントスへ移籍する原因となったことや、ユヴェントスへの批判を口にしていたためサポーターから歓迎されず、「#NoAllegri」というハッシュタグがTwitter上で拡散してしまった。また、3連覇チームの3-5-2を基本方針とする発言をしたものの、アッレグリはキャリアで一貫して4バックと3センターの中盤のシステムを用いてきたため、短い準備時間でどのように戦術を浸透させていくかが最初の課題となった。開幕から2ヶ月後の11月に入り、アッレグリは4バックの4-3-1-2のフォーメーション移行へ踏み切ると、トップ下に加えて中盤に降りて組立に参加するテベスの5人でポゼッションを維持することが可能になり、得点率、失点率ともに数値が改善した。リーグ後半戦が始まると2位ローマが徐々に勝ち点を取りこぼすのに対し、安定感のあるユヴェントスは独走態勢に入っていき、2015年5月2日、4試合を残し2位ラツィオとの勝ち点差が17となりリーグ優勝が確定、コンテ時代から合わせて4連覇達成となった。最終成績は、26勝9分3敗で前年に比べれば勝ち点は減少したものの、コッパ・イタリアで20年ぶりの優勝、チャンピオンズリーグで決勝進出と3つのコンペティションを戦い切った。単純に控え選手と入れ替えるターンオーバーではなく個々の体調に合わせて出場時間を調整し、コンディションの悪化を防いだ。チャンピオンズリーグ決勝トーナメントで息切れした試合は無く、リーグでも突出して出場時間が多かったのはブッフォン、ボヌッチ、マルキージオの3名に限られた。

 チャンピオンズリーグ準決勝に進出したチームの中で唯一格下とみられていたユヴェントスだったが、前年王者のレアル・マドリードから移籍してきたアルバロ・モラタが古巣相手に2試合連続ゴールの活躍で決勝に進出した。チャンピオンズリーグ決勝のバルセロナ戦では、前半4分に失点するものの後半55分にモラタのゴールで振り出しに戻す。しかし、逆転しようと攻め上がったところにMSNトリオのカウンターで2失点すると、前評判を覆せず1-3で敗戦した。

 夏のマーケットではテベス、ピルロ、ビダルが移籍し、4連覇の核だったセンターラインが総入れ替えとなったものの、マンジュキッチやケディラの獲得に加え、ウィングのポジションでも起用できるクアドラードは攻撃のオプションを増やし、ディバラやるがーにのような若い選手の加入で中期的なチーム作りへの投資を行った。

 迎えた新シーズンはクラブ史上初の開幕2連敗を喫すると、10試合で勝ち点12しか積み上げられずクラブ史上最悪の成績で14位まで沈んでしまった。浮上のきっかけは11節のトリノ・ダービーで、マルキージオ、ケディラが復帰しディバラ、マンジュキッチのコンビがチームにフィットし始めた11月から本来の調子に取り戻し、首位ナポリとの天王山となった第25節に勝利し15連勝で首位まで順位を上げた。3月20日のトリノ・ダービーにおいてブッフォンは、1992-93シーズンにセバスティアーノ・ロッシが記録した930分間無失点という記録を更新し、973分間無失点のセリエA新記録を樹立した。15連勝から引き分けを挟み、さらに10連勝と26試合無敗で順位を上げていき、最終成績は29章4分5敗で圧倒的強さを見せつけ5連覇を達成した。

 前年と同様に主力選手であるポグバがマンチェスター・ユナイテッドへ復帰したものの、前年にセリエAの得点記録を更新したゴンサロ・イグアイン、ミラレム・ピャニッチ、ダニエウ・アウヴェスを補強。ピャニッチ、イグアインの獲得はローマ、ナポリに契約解除金を払っており、移籍交渉をせず優勝を争うライバルから引き抜いた形となった。

 マルキージオの長期離脱でレジスタを任せられる選手がおらず試行錯誤が続いた中、2017年1月22日のラツィオ戦において、スタメンにイグアイン、ディバラ、マンジュキッチ、クアドラード、ケディラ、ピャニッチという攻撃的なメンバーが並んだ。それまで用いていた3-5-2でも4-3-1-2の布陣でもなく、ワントップにイグアイン、ツーボランチにケディラとピャニッチ、左サイドにマンジュキッチという4-2-3-1の構成だった。トップ下のディバラはスペースを自由に移動しながらプレーし、マンジュキッチはフィジカルで優位に立つ等新たな可能性を示した。アッレグリは起床時にこのフォーメーションの思いついたと言い、攻撃な選手を同時に5人起用することから、イタリアの政党・五つ星運動になぞらえてメディアは「チンクエ・ステッレ」と呼んだ。システム変更で最適解を発見しコッパ・イタリアでも3連覇を達成する力の配分で、終盤には引き分け試合が増えたものの一度も首位を譲ることなく29勝4分5敗の最終成績でリーグ6連覇を達成した。

 チャンピオンズリーグでは2年前の決勝で敗れたバルセロナやキリアン・エムバペを擁し勢いに乗るASモナコを退け、レアル・マドリードと相対する決勝へ2年ぶりに駒を進めた。「可変システム」VS「不変システム」の対決となったチャンピオンズリーグ決勝は、ユヴェントスが前半からプレスをかけレアル・マドリードに効果的な攻めをさせず1-1の同点で折り返すものの、プレスの圧力が弱まり受けに回った後半61分、64分に立て続けに失点し、為す術がなく1-4で敗戦した。

 2017-18シーズンは、前シーズンのパレルモ戦でアッレグリと言い争いになり、直後のチャンピオンズリーグのポルト戦でベンチ外になるなど関係悪化が噂されていたボヌッチが移籍志願し、ACミランへ加入する不穏なスタートとなった。アッレグリは毎年序盤戦にシステムの最適解を試行錯誤しながら、後半戦にピークパフォーマンスを持ってくる戦力を取っている。それでも例年通りの首位独走とはいかず、ナポリと1ポイント差の2位で冬の中断期間を迎えることとなった。12月には調子の上がらないディバラをスタメンから外し、ピャニッチを中心にケディラとマテュイディの3人の中盤で攻守のバランスを改善した4-3-3の布陣を採用し始めた。

 独走して優勝した過去2シーズンと同等の勝ち点が積み上げたものの、欧州5大リーグで唯一最終盤まで優勝争いが決着せず、ユヴェントスの7連覇が確定したのは2018年5月13日のことだった。12月からも散られた4-3-3のシステムではチームのエースであるディバラを活かすことが出来ず、4-4-2や3-5-2のフォーメーションも試されたものの最終刑が固まることはなかった。また、バルザーリの衰え、ブッフォンの対談、マルキージオの相次ぐ故障と連覇を支えてきたメンバーが中心ではなくなり、サイクルの終わりを感じさせるシーズンとなった。

 アッレグリが就任してからの4年間は、リーグだけでなくコッパ・イタリアでも勝ち続け、4年連続で国内2冠を達成した。また、2015年8月23日から2017年10月14日までのおよそ2年間、ホームスタジアムで開催した57試合で無敗を継続しそのうち45勝する圧倒ぶりだった。高いインテンシティで相手を圧倒するようなコンテのサッカーから、ポゼッションで試合をコントロールしながらゆっくり相手を崩すサッカーへ変化し、積極的な補強策で毎年メンバーを入れ替えながらもアッレグリのマネジメント力でタイトルを獲得し続けた。

 
拡大路線とコロナ禍

 ユヴェントスの課題は収益改善で、新スタジアムや継続的なチャンピオンズリーグ出場によりイタリアのクラブで唯一検討していたが、欧州のトップクラブとは2008-09シーズンからの10年間で大きく差をつけられておりトップ10に入るのがやっとという状況であった。最初は噂話だと思われていた2018年のクリスティアーノ・ロナウドの獲得は、あと一歩で届かなかったチャンピオンズリーグ制覇のための戦力補強以上にマーケティング改善の狙いがあった。マドリーやバルサ、マンUといったマーケットにおいて知名度のあるクラブはSNSでも影響力を持っており、ユヴェントスと大きな差があった。Instagramだけで1億人を超えるフォロワーを持つロナウドの宣伝効果はすさまじく、移籍から1ヶ月経たない間にユヴェントスのInstagramのフォロワーは1.5倍に増加している。33歳を超えた選手に総額3億ユーロもの資金を投じることは、ファイナンシャル・タイムズ紙にギャンブルだと評された一方、ユニフォームの売り上げは1日で52万枚に達し、さらに株価は33%上昇し、KPMGによるレポート「ロナウド・エコノミクス」では、コマーシャル収入は3年で1億ユーロの増収になり投資が回収できる見込みがあると分析された。ロナウドの獲得では意見の対立があり、反対意見のマロッタの契約が更新されなかったことからインテルへ移ることになり、アニェッリ会長と一緒に交渉を進めていたパラティチが強化責任者に昇格することになった。2019年10月24日の株主総会では、アニェッリの就任から9年間で売り上げが3.6倍、株価が9倍になったことが紹介され、2019年を「新たなゼロ年」とし、テレビ視聴者の減少に触れながらよりクローバルなマーケットへの方向性が示された。
 この路線は競技面にも影響し、ロナウドを巨額の資金で獲得した時点で「優勝は当たり前、チャンピオンズリーグを制覇出来なければ失敗」という空気が出来上がってしまった。開幕15試合で14勝1分は5大リーグの記録となる勢いで、第16節時点ですでに2位ナポリと8ポイント差を付けており、「11月にリーグは終わった」「早くも8連覇は確実」という声すらあった。初黒星は3月19日に行われた第28節のジェノア戦で、その頃にナポリと20もの勝ち点差が開いていた。

 4月20日のフィオレンティーナ戦に勝利し前人未踏の8連覇を達成したものの喜びは一瞬で、4日前のチャンピオンズリーグ・ベスト8のアヤックス戦の敗戦を忘れさせてくれるものではなかった。求めるところは国内リーグの外側にあり、サポーターを満足させるスペクタクルなサッカーを実現出来なかったことから、5年連続でリーグ優勝に導いたアッレグリは事実上の解任となってしまった。アッレグリ解任の意見はパラティチやネドベド副会長から出ていたとされ、アニェッリ会長はアッレグリの退任会見において、会長の一存ではなく企業として下された決断だということを強調した。

 後任監督のマウリツィオ・サッリは、よりモダンな特徴を持ったマタイス・デ・リフトに出場機会を与え、センターバックに高い位置を要求し積極的にビルドアップに参加させた。26勝5分7敗の成績で優勝し9連覇を果たしたものの、「サッリボール」とメディアが称したショートパスで相手を崩していくサッカーと、ブランドイメージのためにロナウドを中心にするタスクは嚙み合わず、試行錯誤の末に首脳陣を満足させられず「サッリのユヴェントス」という具体的な花袋を提示できずにシーズンは終了してしまった。

 2020年3月に新型コロナの感染拡大でリーグが中断されると、拡大路線で売り上げの中で人件費の占める割合が7割まで達していたユヴェントスは在籍的な苦境に陥った。実質的な親会社フィアット・クライスラー・オートモービルズのブランド・Jeepの契約でスポンサー収入を確保したものの、営業収入は20~30%減少する厳しい見通しで、全体的な売り上げが8%減少することで人件費の割合は80%に達してしまった。コロナ禍という不運があったとはいえ、2016年から3年間でバランスを取っていた収支が一気に傾き、FFPの基準を超える赤字が積み重なっていた。

 サッリの解任により、監督経験が無いアンドレア・ピルロをBチームから急遽トップチームに抜擢したのは会長の判断だった。ピルロの志向するサッカーは、UEFAライセンスの修了論文「私の望むサッカー」に書かれているモダンでイタリア代表のゲームモデルと通ずるものであり、ロナウドのような守備のタスクが少ない選手を前線に置きながらハイプレスでイタリア代表のゲームモデルと通ずるものであり、ロナウドのような守備のタスクが少ない選手を前線に置きながらハイプレスをどのように実現するか手腕が問われた。しかし新人監督にとって故障者、世代交代、ロナウドと相性の悪かった可変システムの断念と問題が積み重なり、スクデット10連覇を逃し最終節でなんとかチャンピオンズリーグ出場権は確保するという結果に終わった。ネドベドと共にアッレグリ解任を強く主張していたパラティチはマロッタと同様に契約を更新されず、2年連続で監督の哲学との妥協点を探ったシーズンの後に再びアッレグリを呼び戻したことに迷走が表れていた。

 2021年4月18日に発表されたスーパーリーグ構想では、ユヴェントスは参加クラブに名を連ねた。アニェッリ会長は欧州クラブ協会の代表であり、UEFAとチャンピオンズリーグのフォーマットについて協議していたが、コロナ後の人件費高騰、経営悪化などを理由に寝返る形でスーパーリーグ構想を主導した。サッカー界の反発が強く構想はすぐさま頓挫してしまったが、ユヴェントスサポーターも拒否反応を示し、スタジアムではアニェッリ会長を非難するバナーが掲げられた。


第二次アッレグリ政権

 2021年5月28日、2年ぶりにマッシミリアーノ・アッレグリが4年契約で監督に復帰した。移籍市場ではチームの若返りが進められ、数年間チームの中心だったロナウドをマンチェスター・ユナイテッドに売却したほか、ブッフォンが再び退団した。新たにマヌエル・ロカテッリをサッスオーロから加えたもののそれ他はモイーズ・キーンの復帰と将来の投資としてブラジルからカイオ・ジョルジを加えるにとどまった。

 スクデット奪還という高い目標を掲げて突入したシーズンであったが、開幕4戦で2敗2分を喫し降格兼に沈むなどインテル、ミラン、ナポリが展開する優勝争いから早々に脱落してしまった。目標を前年度と同じCL出場権確保に後退せざるを得ない状況の中、冬の移籍市場ではフィオレンティーナからドゥシャン・ヴラホヴィッチを獲得し、ロナウドの穴を埋めた。一方でパラティチがマネージングディレクターに就任したトッテナム・ホットスパーにロドリゴ・ベンタンクールとデヤン・クルゼフスキを放出した。

 最終的に24節で4位に浮上したが、そのままシーズンを終えた。チャンピオンズリーグ出場は決めたものの、勝ち点が78から70、得失点差が+39から+20まで減少するなど前年度より戦いぶりは冴えずチームの復活には至らなかった。カップ戦でもチャンピオンズリーグはビジャレアルに敗れてベスト16、コッパ・イタリアはインテルに敗れて準優勝に終わり、2010-11シーズン以来の無冠に終わった。

 2022-23シーズンはフリーでアンヘル・ディ・マリア、トリノからブレーメル、マルセイユからアルカディシュ・ミリク、パリ・サンジェルマンからレアンドロ・パレデスを獲得し、マンチェスター・ユナイテッドから6シーズンぶりにポール・ポグバが復帰した。11月28日、アンドレア・アニェッリ会長、パベル・ネドベド副会長、マウリツィオ・アリヴァベーネCEOをはじめとする取締役会全員の辞任を発表した。これは2021年6月からイタリア国家証券委員会などに調査されていた不正会計によるものであり、FFP回避のための複数年にわたる会計操作が行われていた。新会長にはジャンルカ・フェレーロが就任した。2023年1月20日に勝ち点15の剥奪が発表されたものの最終的に勝ち点10の剝奪となった。チームは勝ち点72でCL出場権内の3位につけていたものの、この処分によって7位に転落しシーズンを終えた。チャンピオンズリーグではマッカビ・ハイファに1勝のみでグループリーグ敗退、ヨーロッパリーグとコッパ・イタリアではベスト4に終わり、このシーズンもタイトルを獲得できなかった。

 2023-24シーズンでのUEFAカンファレンスリーグの出場が可能な順位であったが、7月28日にFFP違反による大会追放処分が下された。ユヴェントスが欧州カップ戦に出場しないのは2011-12シーズン以来のことになった。メルカートでは長年守備陣を支えてきたボヌッチやクアドラードが退団した。ナポリから昨シーズンにリーグ優勝の立役者となったクヴィツァ・クヴァラツヘリアを発掘したクリスティアーノ・ジュントーリを新スポーツディレクターに招聘するも、補強はFFP違反の影響からかリールからティモシー・ウェアを獲得するに留まった。リーグでは怪我もあり殆ど出場していなかったポグバがドーピング疑惑で出場停止になったものの、序盤から首位を走るインテルに次ぐ2位を維持しつつ、ケナン・ユルディスとディーン・ハイセンをNEXT GENから昇格させた。21節でレッチェを3-0で下すと首位に浮上し、アッレグリ政権3年目にして念願のスクデット獲得に向けた好機が訪れた。しかし23節のインテルとの天王山で痛恨の敗戦を喫すると瞬く間に失速。一時期は優勝どころかCL出場すら危ぶまれる状態に陥り、最終的にリーグ17試合で勝ち点19しか積み上げられず、インテルはおろかミランの後塵を拝する3位でシーズンを終えた。

 第二次アッレグリ政権の終わりは唐突に訪れた。5月15日に行われたコッパ・イタリア決勝でアタランタを下しタイトルを獲得できたものの、審判への侮辱や照明装置を蹴ったことなどによりアッレグリは体積処分を受けることになった。試合後にはスポーツディレクターのクリスティアーノ・ジュントーリを追い払うような姿を見せ、スタジアムの通路で記者と口論になったなどとも報じられた。5月17日、取締役会は「ユヴェントスの価値観に相容れない」とし、アッレグリの解任を発表した。残りの試合はプリマヴェーラの監督にしてOBのパオロ・モンテーロが暫定で指揮を執った。

 

モッタ体制以降

 2024年6月13日、昨季ボローニャのクラブ史上初のCL出場権獲得に大きく貢献したチアゴ・モッタを新監督として招へいすることを発表した。監督交代に伴い、メンバーは大幅に刷新されることとなった。フェデリコ・キエーザはリヴァプール、アレックス・サンドロはフラメンゴ、アドリアン・ラビオはマルセイユ、サミュエル・イリング=ジュニアとエンソ・バレネチェアはアストン・ヴィラ、モイーズ・キーンはフィオレンティーナ、マティアス・スーレはローマ、ディーン・ハイセンはボーンマスに移籍した。夏の移籍市場ではニースからケフラン・テュラム、ヴェローナからフアン・カバル、アタランタからトゥーン・コープマイネルスを完全移籍で獲得し、モンツァからミケーレ・ディ・グレゴリオ、フィオレンティーナからニコラス・ゴンザレス、ポルトからフランシスコ・コンセイソン、ミランからピエール・カルルをレンタルで獲得した。リーグ戦は1月のナポリ戦まで無敗であったがそれは新戦力が上手く機能せず、戦術の浸透度がなかなか上がらなかったことによる引き分けが多かった。新フォーマットとなったチャンピオンズリーグではプレーオフでPSVに敗れ敗退した。3月のリーグ戦でアタランタに0-4、フィオレンティーナに0-3と連敗したことで、チアゴ・モッタの解任が決定した。後任はイゴール・トゥドール。
 2024-25シーズン終了後、手腕を発揮できなかったSDクリスティアーノ・ジュントーリの辞任が決定。あくまでトゥドールは暫定措置と考えていたフロント陣は去就が不透明なナポリのアントニオ・コンテの復帰を画策していたがコンテ自身が続投を発表し白紙に。クラブワールドカップはグループステージ2位で決勝トーナメントに進むがベスト16でレアル・マドリードに敗れた。メルカートではリールを退団しフリーのジョナサン・デイヴィッドを獲得した。

マンチェスター・ユナイテッドの7番

 ジョージ・ベスト、ブライアン・ロブソン、エリック・カントナ、デビッド・ベッカム、クリスティアーノ・ロナウドといったスーパースターが背負った伝統の背番号。しかしクリスティアーノ・ロナウドが退団して以降呪われた。

 

マイケル・オーウェン

 リヴァプールのアカデミー出身でありながらまさかの加入をしたワンダーボーイ。09-10シーズンに加入したが怪我に泣かされまともに活躍できず3年で退団。このオーウェン曰く「ちょっとした浮気」のおかげでリヴァプールファンには嫌われている

 

アントニオ・バレンシア

 2009年夏に加入したエクアドル代表のアタッカー。加入から25番を着用していたが12-13シーズンに7番に変更。しかしスランプに陥り1シーズン限りで元に戻した。

 

アンヘル・ディ・マリア

 2014年夏、ハメス、クロースといったレアルの大型補強の煽りを受けて7番を引っ提げて加入。10アシストも記録したがゴールはたったの3。シーズンが進むにつれて当時の監督ファン・ハールとの関係も悪化していき、ディ・マリアの奥さんもマンチェスターの寒さに不安を漏らした結果1シーズンでパリ・サンジェルマンに移籍。

 

メンフィス・デパイ

 2015年夏に加入したオランダの若造。自ら7番をおねだりした。当時の監督ファン・ハールはオランダ人に贔屓して甘いので易々と与えた。そのファン・ハールは15-16シーズン限りで解任。後任のジョゼ・モウリーニョには全く相手にされず2017年夏にオリンピック・リヨンに去っていった。

 

アレクシス・サンチェス

 行く先々で7番を背負ってきた生粋の7番。ピアノ演奏と共に加入。しかしユナイテッドで決めたゴールはたったの5。そもそもシティに取られたくなかったという理由で獲得された。生粋の7番でさえこの体たらくなので呪いの根強さが強いことが分かる。結局ユナイテッドにはピアノを弾きに来ただけであった。

 

エディンソン・カバーニ

 2020年夏の移籍市場最終日に加入した。『おじさん』『パニックバイ』『今頃w』とヘンリク・ラーションの前例があるにもかかわらず加入当初はボロクソ言われていたがロナウド以降の7番とは違いコンスタントに活躍。とうとう呪いは払拭された。21-22シーズンはクリロナが復帰したので代表でも着用するお気に入りの番号21に変更。

 

クリスティアーノ・ロナウド

 呪いは浄化され本来の持ち主に戻された。とおもいきや21-22シーズンは公式戦26ゴール5アシストを記録し、惨憺たるシーズンの唯一の光であったが22-23シーズンに入り新監督エリック・テン・ハーグが就任するとテン・ハーグの誰も贔屓にしない采配によってベンチスタートが増加。ある試合では試合中にピッチを後にするなど問題行動も露呈。挙句11月にメディアのインタビューでテン・ハーグへの恨みを暴露。持ち主自ら7番を汚して契約解除。

 

メイソン・マウント

 金の切れ目が縁の切れ目でチェルシーから加入。しかし呪いが発動したのか怪我を頻発。まともに活動できていない。

リッカルド・オルソリーニ

国籍:イタリア

アスコリのユース出身。2017年の冬にユヴェントスと契約し夏から正式加入となった。その夏はアタランタにレンタル移籍。しかし出場機会に恵まれず冬にボローニャへレンタル先を変更。ボローニャでは1試合丸々ベンチに座ることがありながらもフル出場する試合もあるなどアタランタよりは恵まれた。18-19シーズンも引き続きボローニャへレンタル。3月以降からゴールに貢献。

そして2019年夏に完全移籍に切り替わった。ユヴェントスでの出場試合は0

 

マッティア・カルダラ

国籍:イタリア

アタランタのユース出身。16-17シーズンにトップチームで活躍すると、2017年夏にユヴェントスと契約を結ぶ。17-18シーズンはレンタルの形でアタランタに残留。シーズン終了後に正式にユヴェントスに加入しプレシーズンツアーにも帯同した。

しかし喧嘩別れしたレオナルド・ボヌッチとヨリを戻すための生贄としてミランに捧げられた。ユヴェントスでの出場試合は0

 

クリスティアン・ロメロ

国籍:アルゼンチン

母国のクラブであるベルグラーノのユースチームから2016年にトップチームへ昇格。若手有望株として世界から期待され2018年にジェノアへ移籍し欧州へ進出。ジェノアで最終ラインの主力として確実に評価を高めると2019年の夏にユヴェントスと契約を結ぶ。19-20シーズンはレンタルの形でジェノアに残留。20-21シーズンはアタランタへ買取オプション付きでレンタルされた。

するとアタランタの3位フィニッシュに貢献しセリエA年間最優秀DF賞に輝いた結果。国外から関心を引く。金になると確信したアタランタは買取オプションを行使し速攻でトッテナム・ホットスパーに売却。ユヴェントスでの出場試合は0

しかもロメロの後釜としてメリフ・デミラルまで引き抜かれている。

 

モハメド・イハッターレン

国籍:オランダ

PSVのユース出身。2021年夏にユヴェントスと契約し速攻でサンプドリアにレンタルされたが、父親の死などでメンタルが終わっておりサンプドリアではトレーニングを含めてまともに稼働せず。冬にレンタル先をアヤックスに変えるとユースチームで一定の活躍を見せるも22-23シーズンは出場せずアヤックスでのレンタル生活は終了。情報によればサッカーをやれる体ではないデブになってるらしく、個人トレーニングのみ消化しているという。ユヴェントスでの出場試合は0

 

ニコロ・ロヴェッラ

国籍:イタリア

ジェノアのユース出身。2021年冬にユヴェントスと契約。ユヴェントスはこの契約のために自チームのユースのエリア・ペトレッリとマノロ・ポルタノーヴァを生贄に捧げている。正式な加入は2022年夏でそれまではレンタルの形でジェノアに残留した。来る2022年夏、ロヴェッラはプレシーズンツアーに帯同。

カルダラの二の舞か

このプレシーズンツアーでポール・ポグバが負傷。MFのコマ不足を懸念したマッシミリアーノ・アッレグリはロヴェッラの存在を忘れたのかレアンドロ・パレデスをレンタルで獲得。序列が下がったロヴェッラはモンツァへレンタルで放出された。ユヴェントスでの出場試合は0

 

アンドレア・カンビアーソ

国籍:イタリア

ロヴェッラに続きまたジェノアのユース出身。2022年夏にユヴェントスと契約し速攻でボローニャにレンタルされた。左サイドバックを主戦場としながら時に右サイドバック。中盤の両サイド等のポジションも経験し一定の活躍を見せた。

ユヴェントスでの出場試合は0

ユヴェントスのSBは経年劣化が著しいので23-24シーズンはトップチームでの活躍が期待されるがルカ・ペッレグリーニの例がある他、ファビアーノ・パリージやカルロス・アウグストなど22-23シーズンに活躍したサイドバックを買おうとしてたりするので何とも言えない。

 

こんな感じで先行投資しといてその存在を忘れほかの選手に色気を出すことが多い出場試合は0ではないがルカ・ペッレグリーニ、レオナルド・スピナッツォーラ、ロランド・マンドラゴラもこの部類に入っていいだろう。マンドラゴラに至っては1試合4分の出場のみだし