5月のある日、仕事帰り国道229号線を通り、積丹町に入り神威岬に寄って見た。


当日は、風が強く神威岬への通行は禁止かと思われたが、規制は敷かれていなかった。


  

海難事故は頻繁に発生していた。
土地の人々はこのような海難事故が再び繰り返
されないようにするため、大正三年にトンネル
を造る計画をたて着工した。


開削作業は岬の西側と東側の両方から同時に始
められたが、測量計画の誤算か開削技術が未熟
なためか、トンネルの中央で食い違いが生じ
事が頓挫してしまった。


ところが村人たちが犠牲者

の供養をふくめ、双方から念仏を唱え鐘を
打ち鳴らしたところ、その音で掘り進む方向が
わかり工事を再開することができたのである。


このようにして大正七年十一月八日に開通とな
り、以来「念仏トンネル」の名がある。
また、この全長六十メートルのトンネルは割合
低く中が真っ暗なため、「念仏を唱えながら
通ると安全である」と言い伝えられている。


万里の長城を思わせる神威岬への道

  


  

当時神威岬の狭い場所に家族の住宅があった。今も鉄の手すりの残骸が残っている。


神威岬灯台

女人禁制の地に建つ灯台

この灯台は、北海道庁が明治21年(1988年)から6年間にわたって20基の灯台を建設した

最初の灯台であり、明治21年8月25日に初点灯しました。北海道の現存する灯台では5番目に古いものです。

海上保安庁

神威岩・高さが80メートル

神威岩の隣にメノコ岩があるのですが、写っていない。申し訳ない。

  


北の辺境の地で、日夜航海の安全のため「守灯精神」のもと厳しく、辛い灯台守の生活と
地域の方からの敬意をここに御紹介します。
 そして、安全への願いを込めてこれからも光り続ける灯台を大切にして下さい。


◆「恨みますぞいお神威さまよ、なぜに女の足をとめる」(江差追分)
ここ神威(かむい)岬は風光明媚な景色を人々に堪能
させてくれる一面、古くは西蝦夷三険岬の一つとして、
航海の難所として知られています。
 灯台ができた明治21年(1888年)には職員3名が勤
務し、灯台にたどり着くには余別の集落から片道4kmも
の険しい山道を登ったり、降りたりしていました。
 特に、岬に近づくと崖が続き一歩踏み外せば海に落
ちてしまう怖いところが何箇所もあり、子供や女性にとっ
ては困難を極め、灯台の職員家族や灯台を訪れる人
は、海岸の大きな石を飛びはねながら伝って歩くのが普
通でした。 灯台遠景(撮影年不祥)
 生活は、天水を貯め、これを生活水として利用し、電
気のない時代ですのでランプを灯し、食料は自給自足
が欠かせなかったようですが、米、味噌、醤油、塩とい
った日用品は木船の備船で買出ししていました。
◆「何阿弥陀仏、ナミアミダブツ、なむあみだぶつ」
 大正元年(1912年)10月の天皇誕生日に灯台長
婦人と三歳の次男、補助員の奥さんがお祝いの食料
品を買出しに余別まで行く途中大波に飲み込まれ行方
不明になってしまいました。 灯台と神威岩(撮影年不祥)
 村人たちは、これに心を痛め協力してトンネルを掘ることになり、手にタガネ、ハンマー、そ
して掘り出した岩を運ぶモッコなどの道具をもって集まり、光りが届かない真っ暗な中、一ノ
ミ、一ノミのみ堀り続け、7年の歳月をかけ大正7年(1916年)に心暖まるトンネル(念仏トン
ネルと呼ばれています。)が完成し、灯台職員や家族、そして灯台を訪れる人たちの安全
が守られました。
 神威岬灯台は昭和35年(1960年)の無人化になるまで、職員90人とその家族により守
られました。
 参行文献:「北の灯台を守る人々」小山心平著
「灯台風土記」燈光会刊
第一管区海上保安本部
小樽海上保安部 平成21年9月
  


ラン&ウォーキン日記

6月の目標
121ヶ月連続70万歩(560km)以上に挑戦(既に達成した75万歩60ヵ月、100万歩連続60ヶ月含む) 

 2024年6月17日

累計歩数
158.151.335

距離 約126.521km

地球1周4万キロとして3.16303

 

①6月の目標 70万歩1日23400歩(18.7km) 

②6月17日の実績24.115(19.3km) 

③6月トータル473.578(378.9km)

  達成率65.3%

今日も皆様へ素敵日が、訪れますように