武術的な考え | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める

 

 

 

昨年の暮れから、思いがけないことが頻繁に起こった。空手の恩師、浜井識安先生の急逝。そして、元日の能登半島地震、などなど。まずは能登半島地震の被災者に衷心より、お見舞いを申し上げたい。

 

実は、能登半島のある石川県は私が生まれ育った故郷だ。また石川県知事の馳氏は、高校の先輩、また同じウェイトトレーニングセンター(ジム)の先輩でもある。その石川県に元日、地震が起こった。現在、能登地域は、震災の復旧と対応に追われている。そして、未だ1万人以上もの避難者が、未だ不便な生活を余儀なくされている。おそらく、馳知事には、気の休まる時間はないだろう。

 

今回の能登半島地震における地域への対応における最大の障壁は、被災地の道路等のインフラが損傷したことにある。それゆえ、被災者や復旧のための作業員を十分に送れない。この点が二百人以上の災害死亡者、1万人以上の避難者を生み出し、今もストレスを与え続けている。

 

私はレスリングで鍛えた馳知事だからこそ、この難局を辛抱強く、乗り切ってくれると信じている。他のリーダーなら、先ず以て体力的に耐えられないだろう。

 

また、他の地域はもちろんのこと、組織運営や自分自身の生活においても、有事の際のライフラインの確保を準備しておくこと。また、どのような混乱が生じてもシステムの復旧がしやすいよう、システムのバックアップと簡略化を考えた方が良いと思う。また、もし一つのシステムが崩壊したら、他のシステムで代替できるようにする必要があると思っている。

 

【武術的な考え】

このことは武術的な考えと同じだ、と私は考えている。例えば、常日頃から、有事の際の生命維持に何が一番大事かを考えておくこと。また、右手がダメになったら、左手を使う。手がダメになったら足を使う。足がダメなら、手を使う。などなどである。私が、今回の災害を見て、直感したことである。このことは武術修練の心得にもつながると思っている。

 

そんなことを感じながら、現在の空手を眺めてみる。今、多くの空手が競技主体である。しかも、その内容はスタミナくらべ、打たれ強さ比べ、手数足数比べ、身体的な速さ比べ、である。もちろん、その中には優れた技もなくはないが、理法を生かして編み出した「技」ではない。また、それらの技は心眼の追求ではなく、肉眼で見た場合の技の追求でしかないだろう。平たく述べれば、身体能力に頼った技である。理法という視点がない。断っておくが、そのような技にも、身体能力を引き出す理法はあるだろう。また、たとえ理法を生かした技であっても、身体能力によって相手の質量に耐えられるような基盤がなければ、小手先の技、術となる。

 

私が今、独り実践する武道は、体力が衰えても活かせる技の追求と言っても良い。換言すれば、身体の全ての機能を使えるようにする術の追求である。

 

【自己の心身との対峙】

私も年老い、身体に故障がある。筋力は若い頃の半分の機能しかなくなった。また、使えない部分もある。詳しくは書かないが、だからこそ、ある部分で弱い部分を補完し、ある部分を最大に生かすことを考えている。

 

若い頃には実践しなかったが、身体が衰えたからこそ、取り組んでいる稽古がある。

そんな修行の中で、私は人間には優れた機能があるにも関わらず。開拓してこなかったと反省している。その反省により、創出しているのが拓心武術であり、拓心武道である。

 

おそらく、残された時間は多くないだろう。なんとしてでも、未開の領域に挑戦したい。そして、これまで行なってきた修行と繋げ、空手の修行を本物の道の修行、すなわち武道としたい。

 

そんな思いを実現するには、さらに自己の心身と対峙することが必要だ。この対峙とは、浅いものであってはならない。深いものでなければ、到底「道の修行」とはならないと思うからだ。

 

自己の心身との対峙、私が考える武道修行の眼目である。