少年・少女たちへの貢献〜道の修行 | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める

少年・少女たちへの貢献〜道の修行(極真会館増田道場・修錬教本〜第3章 基本組手技より)

 拓心武術の修練による少年少女達への貢献を考えると、極真会館増田道場・空手武道の修練は、かなりボリュームが多く、困難だと思われるかもしれません。確かに、全ての修練を行おうと思えば困難かもしれません。しかし、その点はTS方式の組手法を中心とすることで改善されると思っています。また、まずは体を強くする、心を強くする程度でも良いと思います。しかしながら、子供たちの意識の中に自(私)が誕生すると同時に、その心と身体は何らかの方向性に向かっているのです。

 ゆえに大人は、その方向性が偏向した方向に向かわぬよう軌道修正してあげること、また人間が本来が有すると思われる、自他を活かす力、軌道修正する力を伝える必要があるのではないでしょうか。その自他を活かす力、そして軌道修正する力こそが、理法の力(道の力)なのです。

 本道場では、「真の勝利」とは「理法に出会うこと」だと考えています。すなわち、単純に「相手に勝った」ではないのです。真の勝利はその部分ではありません。もちろん、試合修練では、相手に勝つこと、負けないことを目標に全力を尽くして行わなければなりません。そうでなければ、理法に出会わないからです。

 ここで一番問題なのは、「〈試合に勝った・相手に勝った〉=〈理法に出会った・道に出会った〉ではない」ということを理解できるかどうかです。その点を理解できないことがが空手界、武道界の意識レベルが上がらない原因です。また私は、世間や大人たちの目がそこを見ていないことが子供達の健全な成長を妨げる可能性がある、と考えています。

 私は、全ての子供に自分を生かし、より良い自(私)を編んでもらいたい、そのために私の考案した空手武道が貢献できたら、と願っています。そのためにも、拓心武術による「道の修行」を通じて、より多くの人に「真の勝利とは何か」を理解してもらえるよう全力を尽くします。

 

 

 

拓心武術の修練と拓心武道(極真会館増田道場・修練教本、組手技のページより)

 

【拓心武術とは】 

 

 拓心武術とは、増田 章が極真空手を基盤に各種武術、格闘技から技術を、また様々なジャンルの知見を採り入れ、再編集したものです。その修練の核心はTS(拓心)方式組手法です。そして、その組手法を核にしながら、組手型、基本組手技の修練を行います。いうまでもなく戦い方には限定がないかもしれません。しかし、そのような修練は人と共有するものではありません。あくまで、拓心武術は武道への転じ(転化)を目指し、理法を追求します。そのために、時に異なる角度から理法の追究を行うこともあります。それが拓心武術における護身技、武器術の修練です。それらの修練を全て併せて戦いの理法の地平を切り拓いていきます。同時に個(自己)の身体の可能性を拓き、かつ心を高めていきます。その道筋を拓心武道と言います。


 

 また拓心武術の修練は、極真空手が遺棄した武術としての古伝・極真空手の技を生かすことを目標としています。ゆえに「組手技」の中には護身技も含まれています。護身技の実用性は、「組手技」を活用したTS方式の組手修練を行うことで理解できます。同様に拓心武術の小武器の活用の修練もTS方式の組手修練が基盤となります。
 言い換えれば、拓心武術の修練目的は、極真空手の武術としての実用性の再現と空手武道をさらに高いレベルの武術に高めることと言っても良いでしょう。そのための2本柱の一つが極真空手であり、もう一つの柱が拓心武術なのです。
 

 繰り返すようですが、拓心武術と極真空手は別のものではありません。拓心武術の中で極真空手は生かされています。同時に極真空手の中で拓心武術は生かされていくでしょう。具体的には、拓心武術の修練は古伝・極真空手を活かします。また、絶えず有意義な技術を包摂融合していきます。さらに、その修練によって戦いの理法を深く学んでいきます。


 

 現在の極真空手の基本は形骸化しています。また組手修練も武術修練の体をなしていません。本来の基本は、応用されてこそ、活かされてこそ基本です。そのようなことになったのは、組手法の瑕疵を改善できなかったことと、本来の型(組手型)を残さなかったからだと考えます。拓心武術は空手武道修練を本来の武術、武道のあるべき姿を目指して編んでいます(未完成)。
 重要な点は組手法を見直し、組手型を見直した点です。そこから基本技(伝統技と組手技)を見直しています。これまでは基本→組手法→型、あるいは基本→型→組手と意識しているように思います。しかし、空手のような絶対の武器を持たない武術は、戦い方、すなわち組手法から型、型から基本の見直しという視点がなければならないのです。なぜなら、空手とは絶対の武器や強い敵といかに戦うかという視点から編み出された物だ、と私は考えるからです。

【自己を活かす理法】

 要するに、絶対的とも思える武器や強敵、そして自然と対峙し、その中から「自己を活かす理法」と「戦いの理法」を導き出すことが重要なのです。また、武人、武芸者が「自己を活かす理法」を認識することで編み出したものが「武道」という日本文化独特の考え方・思想だと思います。しかしながら、武道と言っても、「自己を生かす理法」や「戦いの理法」の体得を目指さないものは、単なる武道主義にすぎません。故に、まずは武術の修練により戦いの理法の体得を目指すことが重要です。ただし、修練方法が偏向したものならば、戦いの理法は体得できないと思います。また戦いの理法の体得ができないもの、また自己を真に活かす理法を認識できないものは、「道」という境地には至らないでしょう。

 さらに言えば、私は戦いの理法の見直しから自己と他(他者)との関係性が見直されると考えています。その見直しは、これまでの「ものの見方」「生き方」の受け取り直しにもつながると思います。ここでいう「受け取り直し」とは、自己の再編集と言ってもよいでしょう。
言い換えれば、自己の再編集とは、自己の在り方を自らが能動的に創り上げていくことと言っても良いでしょう。また、この「受け取り直し」は、自己の可能性を発見、かつ発揮することです。また、真に自己を生きることと言っても良いかもしれません。 

 大袈裟に聞こえるかもしれませんが、拓心武術の修練は自己を取り戻す修行です。また他に引きずられ、自を喪失していくことへの挑戦です。その挑戦としての拓心武術の修行は、自己を完成するための可能性を秘めています。そして、その境地への過程が拓心武道と言うものです。(増田 章)
 

 

 

 

 

 

2022年2月16日:一部加筆修正

2022年2月17日:一部加筆修正

2022年2月19日:一部加筆修正