極真空手についての評論 | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める

 

【空手についての評論】

 

 空手についての評論をしておきたい。私は、一流のテニスプレーヤー達が置かれている状況、見ている状況、そして実践する作業には、格闘技における状況と共通の面がある、と私は考えている。だが、多くの空手家にはテニスや将棋と空手との共通項など、考える気さえないように思える。

 

 おそらく、極真空手の組手試合においては、相手にダメージを与えたり、後ろに下がらないこと(?)、相手より手数を出すこと、などばかりを考えているからだろう。本来、急所に攻撃を正確に当てることと同時に急所をいかに守るかを考えることが重要である。だが、極真空手の場合、最大級の急所である頭部への打撃を蹴りのみに限定しているので、急所に打撃を当てるという感覚が希薄になる。また、相手の攻撃(特に手技)を防御しようとする意識が希薄になる。なぜなら、頭部に手による攻撃がないという状況は、それがある状況よりも防御という対応を等閑にするからだろう。もちろん、蹴り技は認められているので、頭部に対する防御の意識が皆無というわけではないない。しかしながら、手による頭部打撃を禁じ、曖昧な勝負判定を前提とした戦い(競技試合)は、相手の攻撃に対する対応が雑になる傾向がある(まず、この点が理解されないに違いない)。

 

 ここで、これまでの極真空手における試合の歴史を俯瞰してみたい。これまでの極真空手の試合とその判定基準では、相手の上段への蹴りの攻防を避けるために近間での乱打戦に持ち込む傾向がある。その方が、勝つための判定基準に適するからだろう。その傾向は、至近距離からの蹴り技の名手を生み出した。そのことは極真空手の独自性かもしれない。

 

 だが、手数を優先する乱打戦や接近戦での蹴り技にどれだけの武術的合理性があるだろうか、と私は思っている。極真空手の草創期、そのような戦術は、まだ現れていなかった。試合数が増えてくるに従って、戦術が増えてきた。そして、いつの間にか接近しての乱打戦というような戦術が基本形となっていった。

 

 断っておくが、頭部やレバーなどに打撃を加え、ダメージを与え続けて、ノックアウトを目指すボクシングでは、「相手が怯んだ機に乗じる」、また「相手が崩れた瞬間を逃さない」などの戦いの原則を踏まえた、畳み込むような「連打(連続攻撃)」は有効であろう。また、相手のペースを崩すような戦術としての乱打も有効かもしれない。だが、先述した「連打」と「乱打」は少々意味合いが異なる、と私は考えている。

 

 兎にも角にも、ボクシングにおいては、頭部打撃が認められているので、闇雲に乱打戦になるわけではない。やはり剣による戦いと同じく、撃間(一足一刀の間/ミドルレンジ/中間)の戦いが基本である。だが、極真空手では、撃間(うちま)の攻防がなくなったかのようである。

 

【「予測と対応」の勝負】

 

 ここで、なぜ「撃間」を組手の基本形とするのか、ということを考えてみたい。極論すれば、武術や格闘技の組手は、「予測と対応」の勝負だからである。

 

 「予測と対応」、言い換えれば「自他のコミュニケーション」と言っても良い。もちろん完全な予測など誰もできない。だが、たとえ予測をしないという決定がベストだと判断することがあったとしても、様々な対応の経験があれば、予測をするのが人間であろう。そのような特性を活用するという意味合いで、予測と対応を究めるという意識が武術・格闘技には必要だと思っている。当然、相手の命を制するために、自己と相手、また道具と自己、その関係性を活かし、より有効な技と術を作り上げていく武術なら尚更だと思う。要するに、極限の予測と対応を目指し、優れた「技」と「術」を生み出していくのが本当の武術だろう。

 だが、極真空手の組手には「予測と対応」というような意識があまりにも希薄だ。また、不純な意識が多く混ざっている。その原因は、顔面突きを禁じるという設定によるものだ。だが、それでも「予測と対応」の意識を高める方法はある。だが、その競技の勝敗を判定する価値基準(判定基準)が未熟で浅薄ゆえに、その意識が活性化しない、と私は考えている。また、多くの人が、ルールがそうなのだから仕方ない、と開き直っているかのようだ。しかし、本当にそれで良いのだろうか。本当に良い方法がないのか。私はそう考えてきた。

 

 繰り返すが、極真空手の組手では、一撃に対し、「予測と対応」を行おうとする意識が希薄になっている。その証拠が乱打戦の流行である。もちろん、時と場合によって、「乱打」という戦術は有効かもしれない。しかし、そのような戦術が定石となってしまった現在の組手法では、武術の深奥には至らない。相手の突きを受けなくても良いという認識が常識となってゆくからだ。

 

 私がみてきた極真空手の選手の中には、そのような意識を無視することが試合に勝つためには有効なのだ、と言わんが如く組手を行っていた者がいる。かくいう私もそのような戦法を選択した時がある。だが、それは間違いだったと反省している。

 なぜなら、乱打は試合に勝つためには有効な時もあるかもしれないが、そもそも、そのような戦い方で勝てるような試合法とその判定法に問題があるのだ。もし、組手試合が武術、武道を行う者として高みに至るための稽古の一貫だとするならば、そのような試合方法は武術者の心身に悪弊をもたらすと思う。

 

 組手試合に対しては様々な考えがあるだろう。しかし、私は組手試合を重要だと考えているので、これまでの認識では良くないと思っている。また、そのことを容認することは、組手試合が根性と体力を競う見世物に堕落するということだ。さらに言えば、そのような組手は、もはや武術の修練ではないということを意味する。おそらく、剣術の世界も似たようなものだと思っている。私は、そのようなものを武道だとは考えていない。技と術と精神、それらは一体である。武道人は技と術を極めながら精神を極めていくのだ。そのような構造を有するものが武道と名付けるに値するものである。だが現実は、そうでない者達が大手を振っている。それを民衆が是認している。歴史はそのようにして、変化、堕落していくのだといったら言い過ぎだろうか。

 

 

【武術に必要な感覚を奪っていくという弊害】

 

 さて、現時点の極真空手の試合においては、上段への蹴りのみを気をつければ良いという認識になっている。繰り返すが、接近戦にける上段への蹴りというのは、格闘技としては特殊な攻撃法である。もちろん有効ではないということではない。むしろ使い方が巧みであれば有効であろう。だが、それのみに頼ることは弊害がある。

 

  ここで極真空手が蹴りのみとした頭部への打撃について考えてみたい。人間の頭部には目や脳がある、人間の最大といっても良い急所だと思う。ゆえに目へのアプローチ(攻撃)に人間は一番敏感に反応する。また、人間は目から情報を得る部分が多いので、武術においては、目からの情報を活用し、様々なアプローチを行うと思う。ももちろん、目からの情報以外の情報が重要なことはいうまでもないが。あくまで通常のレベルでの話だ。

 ここで私が言いたいことは、顔面を打ち合うと言うことは、人間の反応力や予測力の養成を強く喚起するということ。そして、そのことを等閑にしては、格闘技としては弊害があると言うことである。

 

 

【防具空手は当てない空手と当てる空手を繋ぐ良い方法】

 

 少し脱線するが、防具空手は当てない空手と当てる空手を繋ぐ良い方法だ、と私は思っている。だが、以前はそのように考えていなかった。なぜなら、防具の着用が面倒であること、また伝統的な防具空手には、下段回し蹴りやカギ突き、などの禁止技の制約が多かったのと防具が動きを妨げていたからである。

 

 私は幼少の頃、防具空手の試合を経験したことがある。その時の印象もやはり、防具が動きにくい、面倒くさいということだった。また、下段蹴りやカギ突き、などがないということは、伝統的な空手の組手スタイルを採用しなければならない。ゆえに極真空手と並行して行うには「難」があると思った。だが、私が考案したTS方式では、防具が軽量で動きやすいことに加え、下段回し蹴りやカギ突きなども有効としている。

 

 詳細な試合法をここでは説明しないが、極真空手が吸収したムエタイやボクシングの技術を使えるように考えてある。また、格闘技の試合がダメージを与え合うのに対し、大袈裟に言えば、TS方式は技術の獲得に特化している。今後も続けていけば、多彩な戦い方、かつ優れた技術が誕生するであろう。また、伝統的な空手試合における技術も使える。つまり、多彩な技術が融合されていくだろう。私は、TS方式の防具空手は見た目は悪いかもしれないが、稽古法としては有効だ、と私は思っている。また、ダメージを与え合う試合法と併行して行えば、修練法として互いを補完し合うだろう。

 

 話を戻せば、我が極真空手の組手法は突きによる顔面攻撃(頭部打撃)を認めないことに加え、投げ技も禁じた。その代わりではないが、蹴りによる頭部打撃は認め、なおかつ伝統的な空手流派が禁じた直接打撃を認め、かつ下段への蹴りも認めている。その組手法は、多様な蹴り技や突きわざを包摂、融合した。また、その試合は、当てないことが常識のように考えられていた当時、民衆(大衆)には斬新、かつ、画期的に見えたことだろう。また、頭部という急所を手で攻撃させないで蹴りと突きのみで打ち合いをさせるという枠組みは修練者の体力を画期的に向上させた。

 

 以上は極真空手の良点であり、極真空手の強みでもあるだろう。だが、私は未熟な判定法と勝負偏重主義が間違っていたことにより、多様な技を包摂したが、武術に必要な技の使い方、そして感覚を喪失して行くという弊害を生じてしまったと思っている。一般の人には経験と情報量が少なすぎて理解できないだろうが、私の身体感覚ではそう感じている。

 

【グローブ空手】

 

 もう一つ、補足的に述べれば、グローブ空手というものがある。端的に言えばグローブ空手はキックボクシングと同じになると言っても良いだろう。実は、私はムエタイやキックボクシングが好きなので、グローブ空手については、丁寧に書かなければならないとは思う。だが、大まかに述べることを容赦していただきたい。

 

  頭部への突きに対応する感覚を養うならば、グローブを使った組手は有効である。だが、感覚を養うために必要な練習量の確保は、頭部へのダメージという問題が生じる。つまり脳のある頭部への直接打撃は、脳の損傷の危険性が高くなるのだ。そのことは技能の体得と引き換えに人間活動に支障をきたす可能性が高いということであり、武道としては避けなければならない。それゆえ、私は頭部を保護する面防具を使うことが武道稽古には良いのではないかと考えている。

 

 面防具の着用は面倒であり、見た目も悪いと思うかもしれない。だが、その反面、グローブで手を覆う不自由さはない。また、空手には目潰しや裏拳、手刀、背刀などの技があるので、そのような技を使う場合、グローブを使えば不可能となる。また、投げや関節を決める態勢に移行すること考えるならば、手をグローブで不自由にしないほうが良いと思っている。私は、空手武術とは徒手による打撃のみならず、武器を使った打撃武術、または投げや関節技、などを駆使する武術だと規定している。ゆえに、そのような技術の使用を想定しない稽古は、空手の武術としての独自性がなくなると思うからである。また、後述する武道における安全性の確保の意義を鑑み、熟考すれば答えは出ると思う。ただし、技能の体得できた者同士で、威力を制御、コントロールできるなら小さいグローブを用い、素面での打ち合いの稽古法の一つとして取り入れることは良いと思う。

 

【極真空手の試合における弊害の対策】

 

 話を戻し、既存の極真空手の試合における弊害の対策が全くないわけではないことを述べておきたい。問題は、空手を行う者達に、その弊害を感じるとる感性が低かったのか、それとも間違いを犯してでも「実」を取りたかったのか。その部分をどどのように考えるかである。

 

 先述した「実」とは、平たく言えば、道場経営、そして普及することを第一に考えることだ。「普及」という価値は強力、かつ必要なことかもしれない。だが、「普及」のみに囚われたことが、日本武術の精神を喪失していくことにつながった、と思っている。だが、それは仕方のないことかもしれない。なぜなら、我々は人間を殺傷する武術を必要とする社会を生きていない。また、人を殺傷する武器である「日本刀」を保持していない。これ以上を機会を待つが、我が国の精神形成において「日本刀」の存在が大きいと考えている。私は、日本刀の存在を前提とする、考え方を忘れてはいけないと思っている。だが、「日本刀」と言えば、多くの人が首をかしげるに違いない。ゆえに、私は独り、狂気の世界を想像している。

 

 では、私が考えてきた具体的な弊害対策を述べておきたい。まず、判定基準にボクシングのような有効打という概念を設け、曖昧な判定を退けるべく、明確な判定基準を設けるー①。次に接近戦のみに終始する向きには、ボクシングのようなクリンチワークを認めるー②。また投げ技を認めるー③。などの接近戦を回避する手段を認めること。さらに、トーナメント戦ではなく、実力上位者のワンマッチによるタイトル戦を行い、なるべく優劣がつきやすいように、試合は5ラウンドぐらいとするー④。などなど、以上は、私は予てから考えている、一撃必殺を前提とする剣道のようにミドルレンジ(一足一刀の間/中間/撃間)の攻防の技術と技能を生み出す仕組み作りの案である。

 

 私は①と②と④の案を合わせた改定が良いと思っている。だが、そもそも剣のような一撃必殺を前提とすること自体に無理があると考える向きもあると思う。それゆえ、先述した私の提案には必要性を感じない、もしくは実現が困難だという人がほとんどかもしれない。実は、③の投げ技を認めるというのはフリースタイル空手プロジェクトで実験済みである。悪くはなかったが、問題は、少年部が主体の現代の空手道場では、突き技と蹴り技に加え、投げ技まで教えることは労力的に無理があること。また、試合稽古にスペースが必要となるので難しかったと判断している。それゆえ、私は柔道とドッキングするくらいのことができるのなら面白いと思っていた。私は、一部の人に、そう語っていたが、あまりに荒唐無稽と一蹴されたに違いないと思ってやめた(幼い頃、柔道が好きだった私は、フリースタイル空手ではなく、フリースタイル柔道、または柔道・フリースタイルでも良いと思っていた)。

 

【まずは武道の骨格、背骨を作らなければならない】

 

  さて、繰り返すが、人間にとって頭部は急所だ。それは目潰しとか金的とかを云々する皮相的なレベルのことではない。もちろん、そのような攻撃を用いた戦術は有効だろう。だが、そんなことを声高に言っている者たちの本筋の技術、技能のレベルはたかが知れていると思っている。まずは武道の骨格、背骨を作らなければならない。

 

 再び、脱線を許して欲しいが、先述したような奇襲的なことを唱える人達は厄介な者達だ(時々、脱線しなければならないのは、失礼だが、私の情報量と読み手の情報量が乖離していると思っているからだ)。私の直感では、旧日本軍の中にもそのような感覚の者がいたに違いない。確かにあらゆる奇襲を想定し、備えることは必要だと思う。また、相手に奇襲を意識させることは効果的だと思う。

 

 それでも、そのような奇襲を基本のように扱うことに、私は反対の立場だ。なぜなら、奇襲の実行は、一時的な局面の打開には効果的かもしれないが、長期的に見れば、相手の狂気を引き出し、戦いを長期化させることも考えておかなければならないだろう。そのようなことは、たとえ武術は戦いを有利に行う術であっても、究極的には戦いを終わらせるべく術だと認識する私の思想とは相入れない。

 

 それを認識していない者がいるとしたら、馬鹿か狂人であるに違いない。また、軽々に奇襲を有効だと唱えることは、基盤とすべき本体の技術と技能の養成を等閑にするに違いない。例えば、下手な奇襲は相手に武の本道から外れた、皆殺しの衝動を引き出すだろう。つまり、人間のやることではなくなってしまう可能性がある。奇襲の名手は私が危惧することを織り込み済みだろう。また、私は日本武術の精神はそのようなものではないと考えている。もちろん、人間の狂気などについても想定しておかなければならないだろう。だが、そこまでの想定は、もはや民間の武道レベル、一般人のやることしては、無理がある。私が日本武術に対し着目する点は、その創造性(思考と身体操作の技能と言っても良い)が豊かな点、また創造性を育む枠組みがあるということなのだ。その枠組みが武道という感覚を生み出したと思う。

 

 話を戻せば、頭部を損傷することはいうまでもなく、顔を打たれるということがどれだけ人間にとって本能的に嫌なことかを想像してほしい。もちろん、子どもがひっぱたくぐらいの打撃を顔面に受けても平気だということはわかっている。それでも一番敏感に反応するのが眼を含む顔なのだ。その反応を極めることが武術の基本だと思う。

 

【徒手の武道の基本〜総合武術の構想】

 

 ここで述べていることは、徒手の武道を前提としている。ゆえに武器を使うとなると若干異なってくる。私は、徒手の武術家も武器の修練を徒手の武術と併行して訓練するのが良いと思う。だが、その部分について、今回は書かないこととしたい。

 

 まずは徒手を前提として、人間が本能的に嫌がる顔への攻撃技術を核に、その防御法、戦術、など様々な応用変化を生み出し、かつ、それらを高次に発展させていくということについて論及したい。また、そのような骨格、背骨を有して、より高次の打撃武道が完成するということ。そして打撃武術の価値も高まっていくということを言いたい。さらには、テニスや将棋の名人に勝るとも劣らない技能者を誕生させるということを…。また、私が目指す武道はそのようなものであるということを書き記しておきたい。

 

  私は柔道の草創期、柔道を創設した嘉納治五郎師範は、当身(打撃技)と投げ技、関節技、寝技の全てを使う「総合武術の構想」をしていた、と武道研究者の論文で読んだように記憶する。つまり、現在の組んでから始まる柔道も武術の本質を喪失した形態の一例なのではないかと思っている。だが、私は打撃技を基盤とする空手の方が良いと言いたいのではない。むしろ柔道の方が立ち技のみならず、関節技と絞め技を現存させている点をみると、武術的かもしれないとさえ思っている。要するに、加納治五郎師範は、その根底に武術としての柔道を意識していた。だが、普及のため、社会体育として武道を構想、提言する必要があったのだろう、と私は想像している。

 

 実は幼少の頃、私は柔道を修行し、今でも柔道を好み、かつ憧憬がある。そして柔道の凄さは、関節技よりも締め技があることだと直感している(子供だった私には怖くて苦手だったものだった)。だが、それをスポーツとして現代社会にも残している柔道とは、大変な武道だと思っている。そして、柔道が盛んな国には、それらの国が唱える、柔道とは人間教育として有効だということは建前だと思っている。本当は、その国の人達が有する、いざという時に武人として変身可能でなければならない、という精神と呼応したからだ、と思っている。その精神とは、我が国の伝統である「尚武の精神」である。だが、そのことを声高に唱えることは、現代社会のあり方と逆行するとみられかねないので、言葉を選んでいるのだろう。

 

 だが、私はここまで述べたので、あえて書いておく。現代武道も、嘉納治五郎師範の生きた明治の時代のように、尚武の精神を掲げ、武人の心構えを養成することが必要ではないかと思っている。また不遜ながら、嘉納治五郎師範が当初、構想した武道と私の理想とする武道も似ているかも知れないと思っている。

 

【武術修練の中心は予測と対応(活用)の能力を鍛え上げること】

 

 繰り返すが、私は「武術修練の中心は予測と対応(活用)能力を鍛え上げること」だと考えている。その過程で精緻な技術が生み出されるが、本質は技能である。その点を間違えれば、使い物にならない武術、武人が誕生するだろう。また、我が国における剣術を中心とする、日本武術の精緻な技術、かつ高い技能、そして思想が我が国の歴史において、鎮護国家を目指す志士の養成に役立ったと想像している。

 

 しかしながら、それら志士達の中心部分は技術を持っているということではない。私が考える彼らの中心は、武術の修練によって獲得した、予測と対応の能力、そして日本武術が醸成した精神(魂)だと思っている。その精神は、日本刀が誕生した平安時代の中期から1000年以上もの間、武人達の武術考究と我が国の精神風土に影響した。さらには、封建時代における道徳教育(リーダシップ教育、すなわち現在の道徳教育とは異なる)とが相互作用し、武人のみならず、我が国の民衆の精神を薫習し続けた、と私は想像している。

 

【日本武術の形成と発展の歴史は我が国の精神の歴史でもある】

 

 要するに日本武術の形成と発展の歴史は我が国の精神の歴史でもある、と私は考えている。そして、私はその点に興味がある。もし、私に余剰な時間が与えられるなら、そのことを掘り下げたい。また、その点が昨今の武術愛好者と私の見解の異なるかもしれない点だ(私は、戦中の軍国主義者の唱えた武道精神や武士道は、当時の頭でっかちな一部の軍人と知識人によって曲解されたと思っている。真の武人、志士はあんな戦い方をしないだろう)。

 

 最後に、現在、ほとんどの空手、武道愛好者には、テニス愛好者にも劣るような予測能力と対応能力しかないと言っても過言ではない。なぜなら、試合の構造が良くないからである(もちろん試合が武術修練の全てではないが)。一方、多くのテニス愛好者もそのことを理解していないと思うが。あくまでも私が参考にしているのは、わずか数人の超一流のテニス選手だ。

 

  断っておくが、安全性の確保は重要である。古の武術の稽古であっても同じであろう。なぜなら、頻繁に怪我人や死者が出るようでは、武人、兵士の養成にならないからだ。つまり、武術は生きる残るための術であり、かつ周りの人を益するものなのだ。そのような武術がより高次にシステム化(体系化)したものが武道というものなのだ。私はそう考えている。疲れたので評論はこのぐらいにしたい。もう一度、死ぬほどの修練を積みたいと思っている。そして、その修行の中から、より高いレベルの武術、武道論を残したい。だが、もう身体が衰え、壊れかけている。歩くことがやっとだ。だが、技で誤魔化している(周りにはわからないだろうが)。それでも、あと10年、立っていられるようにと願いつつ修練を続けたい。