基本と応用〜稽古とは?  | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める

 

デジタル空手武道通信 第35号 巻頭コラム/ 基本と応用〜稽古とは? より

 

【基本があって応用がある?】 

 基本があって応用がある?私は、むしろ応用を意識するからこそ基本が重要だとわかると考えています。 ゆえに、ある程度の基本練習を行った後には、応用を意識させ、その上で基本の役割を理解させることが良いと考えています。なぜなら、基本とは、優れた応用に内在する要素(原理)だからです。 

 言い換えれば、優れた応用から抽出した、応用の原理が基本である、と言う事です。おそらく基本と応用を別物と考えている人には、優れた応用、そして物事を発展させることも不可能でしよう。

 物事をより良く発展させられないのは、より良い応用のための原理が理解できていないからです。優れた応用を実現する人には、原理としての基本を徹底的に体得している人です。私が拓心武道メソッドで編み上げた組手型の修練体系は、優れた応用を実現するための原理体得のための手段であり、道具なのです。

 さて、物事を教え伝えるには、基本を徹底的に教え伝えることが重要だ、と私は思っています。しかし、基本を徹底的に教え伝えるという意味が誰にも理解できていません。また、誰にもできていません。繰り返しますが、基本を徹底的に教え伝えるということは、優れた応用に内在する原理を教え伝えることであり、指導者は、それを意識しなければならないのです。 

【その時々の状態を吟味する】  

 では、優れた応用に内在する原理を教え伝えるとはどういうことか。それは、優れた応用を構造的に理解させることです。言い換えれば、その人の応用の仕方を徹底的に分析することなのです。ただし、応用の仕方は、徐々に発展していきますから、一時の状態だけを見て、是非を判断してはいけません。ただ、「その時々の状態を吟味する」だけで良いと思います。  

 「その時々の状態を吟味する」とは、その応用形態(状態)が、どのような基本(原理)と意識(目的)を基盤としているのか。それを分析することです。  言い換えれば、応用から基本を考えること(稽える)ことなのです。そのことが、私の考える「稽古」の本当の意味です。  

 整理しますと、①基本練習→②応用練習→③自己の心身に内在する基本を考える(基本練習)→④自己の応用を考える(応用練習)稽古を続けた後、①基本練習に戻り、後は②→③→④→①と繰り返す。そのような練習、すなわち修練を行うことが上達のためには大事なのです。私の考える空手武道修練とは、以上のような考え方を基盤に行います。

【稽古とはどのようなもの】 

 以上のような考え方を基盤にすると、稽古とはどのようなものになるか。例えば、伝統技の基本稽古は「暴力的な行為を自己に加えてくる相手を想定した状況に対する空手技の使い方(応用/護身術)」を想定しています。そのような伝統技の応用修練は、ルールによって勝ち負けを設定した競技(スポーツ)的な組手とは別の型(組手型)の稽古、そして技を限定した組手稽古によって行います。 

 一方、ルールによって勝敗を設定した競技的な組手稽古は、「伝統的な空手武道の技を発展させ、それを活用する技能(間合い、運足、リズム、呼吸、感情、力などの調節能力)を体得するための修練」です。そこで体験される、技能の習得体験は、人間の生きる活力となり、かつ、新しいものを創造する活力となります。ただし、そのような競技的な組手稽古と伝統技の応用修練は繋がりを持たせること。その部分を有することが増田式武道修練の眼目です。

 

 そのような眼目に到達するには、競技的な組手稽古のルール設定を改善しなければならない、と私は考えています。おそらく、絶対的に正しい稽古法というものはないと思います。それでも技能の習得という志向性は必須なのです。なぜなら、技能への意識こが、基本技術の質と対峙する核心だからです。言い換えれば、高いレベルの技能の希求こそが心の本体です。また、その心は、究極の対応形としての「妙」を生み出します。そのような心の本体を掴み、「妙」を生み出すには、たえず競技のあり方(構造)を吟味し、かつ、それを改善しながら、基本稽古を実施するのが良いと思います。ところが、多くの人は、勝ち負けゲームから得られる快感のような現象を絶対とし、そこに執着して行きます。ですが、そのような現象を目的とすることは、競技やその訓練へのモチベーションを与えてくれますが、ややもすれば競技のみならず自我を生み出している構造にとらわれ、本来の自己から遠ざかっていくでしょう。私は、武道とは本来、相対的な技術訓練を通じ、絶対的な自己を確立するものだと考えています。言い換えれば、たえず自己を生かしながら「上達」を体認し続けることが、自己の確立です。そしてそれが武道の眼目です。 

【武道の稽古の真髄〜すべからく自己の心技体の現状を考えるべし】  

 最後に、私が考える武道の稽古の真髄は、「すべからく自己の心技体の現状を考え、改善すべし」と言っても良いでしょう。補足を加えると、心は絶えず変化し、身体は必ず衰えます。だからこそ、その状況を正しく認識し、その状況の改善、活用を考えていく。言い換えれば、「他己と対峙しつつ、自己の心身を動かす、同時に不動のものとしていく」です。  

 訳のわからない言い方になりましたが、それが増田章の武道哲学です。平たく言えば、最期まで、心と身体を考えていく。そして、それらに感謝していく。それが、私の考える武道修行です。 つまるところ、相手との相対的な評価は手段にしか過ぎず、目指すべきは自己の心身の最善活用なのです。

【最期までにやりたいこと】 

 蛇足ですが、最期までにやりたいことの一つを書き記しておきます。心に秘めて置いては、生きることに精一杯で、忘れてしまうと思うからです。それは「従心への武道」と「九法」の執筆です。まだ、準備が不十分ですが、自分の人生に納得し、感謝するためにも、老いが究極の学びの法則であること。そして、それに感謝できるような武道哲学を完成させたいと思っています。 

 

 

2020ー4−28:一部加筆修正