昨日、日誌の中で取り上げた「傘がない」という楽曲の評論を加筆修正した。私の妄想であるし、陽水ファンからはお叱りを受けるかもしれない。だが、私がこの楽曲と陽水が好きなことだけはわかってほしい。また、増田哲学と書いているが、私は一人ひとりが哲学を持つべきだと思っているからだ、と尊大さを勘弁してほしい。哲学は難しいものではない。自分と自分の周りの世界について考えること。そのぐらいのことである。確かに深浅はあるかもしれない。もちろん、ただ考えればよいということではない。それでも、私は将来、世界中の人たちが、哲学という枠組みを共有し、様々な事柄を議論し合うようになったら良いと思っている。断っておくが、議論というのは悪いことではない。また、勝ち負けに拘るからよくないのだ。実は、議論とは遊びなのだから。ちょっと意味不明かな…。
【評論〜「傘がない」】
この楽曲で陽水は、雨の中、傘がないと感じている人たちがいる。だけど、傘なんてどうでも良い。そんなことよりも、今、誰かがそばにいる事が大切だ(いいことだろ)、と歌っているように思う。
さらに言えば、今、雨に濡れながらも、やがて傍にいる人同士が傘を作っていく。そんなことも陽水の意味世界には含意されていたのではないだろうか。
私の想像だが、この楽曲は井上陽水自身の体験と自己認識によるものだと思う。しかし、その体験による身体知には普遍性がある。つまり、そこには「人間の実存とは相対的でありながら”独り(個々の実存と尊厳)”のもの(絶対的なもの)」という矛盾的統一感の内在が見て取れる。
この楽曲には様々な解釈がなされているようだ。私には、「傘がない」とは、家族や会社、社会などに対する疎外感、個の孤独感のレトリックのように感じた。そして、「君に会いに行かにゃくちゃ」とは、アイデンティティテーを求め、それを抱きしめようとする、作者(陽水)自身の影ではないだろうか。
そのような井上陽水の意味世界を独特のメロディーラインに載せて、この楽曲は表現されている。その全てが、井上陽水の身体知、言い換えれば、独自のセンス( 増田で言うところのSense/智・身体知)により「傘はない」は産み落とされたものなのだと思う。
(ごめんなさい。井上陽水ファンに怒られるかもしれない。この評論はイベントを終え、久しぶりに熟睡でき、一息ついている増田章の妄想遊びである。解釈は個人的な解釈で間違っているだろう。だが、是非一度、インターネットで「傘がない」を聞きながら、私の評論を読んでほしい)
追記
井上陽水の「傘がない」を聞いて喚起するものがあった。少し前に書いた拙歌を掲載しておく。この形式は五行歌というもの。口語体、五行で詠う詩型と言っても良い。これを短歌というと、既存の短歌と競合してしまうので、私はそのように説明したい(先生に怒られるかな、間違っていたら直します)。なお、私は五行歌の会の主宰者、草壁熖太先生の門下生である。
私が私を自覚する限り
寂しさは無くならない
その寂しさを
かき消そうと
私は詩を詠う
詩を
詠うとは
私への慰めか
それとも
私への祈りか
一つ
言えることは
詩を詠うことで
私は私を
抱くことができる
心一