私が伝えたい事 | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める

 私が伝えたい事

(小難しいブログでごめん。具体的なことは著書で展開したい)

 

 

【駄目だし】

黒帯のみんな、集まってくれて、ありがとう。精一杯、気を配り、稽古をしたつもりだが、不十分だったと思っている。

 

心配しないで欲しいが、黒帯合同稽古の後、血圧が90を切り、ふらふらだった。膝の具合も悪い。私の下半身は、血流が悪く、むくみやすい。また、冷え性である。数年前に両脚の静脈瘤の手術をした。医師の話では、静脈瘤は遺伝的な影響もあるという。私なりの見解は、遺伝的な事に加え、若い頃の下半身への過度のトレーニングの影響があると考えている。また、その血流の不良が2年前に手術した、膝の回復を遅らせているようだ。現在、黒帯有志に、何かと助けてもらっているが、とても感謝している。

 

しかしながら、身体の不調は、そんな事だけに起因するのでないと考えている。体力の消耗と衰えに加え、精神的なダメージが追い打ちをかけているようだ。その原因は、私自身の他者への伝達力の無さに対する、自分自身の駄目だしである。それほど、駄目だしをしているなら、もう少し、コミュニケーション技術に改善が見られても良いだろうとの突っ込みがあるに違いない。確かに言う通りだ。しかし、言う程の改善が見られない。なぜなら、私自身が未熟かつ理想を絶えず追求している、発展途上の人間だからであろう。ゆえに現実とのギャップは永遠になくならないかもしれない。そんな愚かな考えゆえ、いつも焦燥感が私の中にある。

 

【黒帯稽古の目的】

さて、今回の黒帯稽古における私の目標は、組手技と組手に関する認識を道場生に伝えたいということであった。

 

その認識の核心は、組手の要諦は、組手技と組手に対する認識が全ての基盤になるということである。体力差はその認識に内包される事柄だ。残念ながら、現時点における空手に対する認識の伝達程度は、両者の間に大きな河が立ちはだかっているかのようである。

 

 

【河を泳ぐ力】

 

私の長年の苦悩は、その河を自分の道場生に泳いで、私の立っているところまで到達させたいとの思いに起因する。また、河を泳ぐ力をつけることが、真の修練であり修業なのだと、私は考えている。

 

 

私は長年、道場生に空手を指導してきた。中には一緒に泳いできた者もいたが、多くのものが、新たな陸地(ステージ)に立ったという事に満足しているかのようだ。新たな陸地に立つことに意義はあるが、最も重要なのは、我々人類が河を泳ぐ力を失わないということである。つまり、河を泳ぐとは、未知のことへの挑戦であり、その基本は自分自身の心身に、深く問いかけることである。さらに言えば、自分と異なる他者との間を泳ぎ、他者の心に到達するようなことでもある(そのような広義ののコミュニケーション能力の開拓が組手修練の最も重要な点であると私は考えている)。同時に、その経験を通じ、自分自身と言う事象を全身全霊で感じることだと言い換えても良い。陸地に立つとは、その経験を振り返り、検証する場、そして一休みの場のようなものだ。

 

断っておくが、あたらたな陸地・ステージに立たせるために無理矢理に河を泳がせる。そんな乱暴な指導をしてはいけないと思っている。また、私の泳法も優れたものではない。あえて言えば、自己流でひどいものだ。さらに泳ぐ体力も衰えてきている。ただ、未知の物事を開拓したいとの思いは強くある。

 

増田は一体なにを言いたいのだと、思われるにちがいない。私が伝えたいのは、新たなステージに立とうとする、積極性、好奇心、そしてフロンティアスピリットの重要性である。

 

【否が応でも】

人生において、河は至る所にある。また陸地もある。補足を加えれば、空手界のみならず、格闘技界、すべての領域の認識レベルが進化していると言っても過言ではない。そのような中では、その進化に普遍妥当性があれば、それは理論として教えれば良いのである。ここでいう陸地とは、人類の認識が結晶化された地点である。しかしながら、その結晶は日々変化していると思う。そのような現実の中、我々人類は、否が応でも新たな陸地、ステージ(進化)を目指さなければならないのだ。

 

【小さな河を泳ぐ事】

私が重要に思うのは、個々人が自身の人生の中、多くの河を渡って行く事で、自己が開拓されるという事実である。それが人生の価値だと、私は考えている。補足を加えれば、何も大きな河、激流の河を泳ぎきる事だけが重要なのではない。小さな河を泳ぐ事が重要だ。ここでいう小さな河とは、未知の経験という事だが、一対一の対人関係において、その間に河のような障壁があれば、経験を恐れずに、泳いで渡るような心構えと能力ぐらいは誰もが経験できる事だろうという事を含意している。また、全てを経験しなくても、すでに普遍妥当だと思われる事に関しては理解すれば良いだろう。ただし、「泳がなくてはならない時があるかもしれない」ということは、覚悟しておいたほうが良いと思っている。

 

さらに言えば、いきなり河に放り込むのではなく、プールを作り、そこで泳ぎを教えても良い。また、すでに普遍妥当性があることは、河を泳がせなくとも河に架橋したりして、立たせても良いのである。その架橋が理論や修練カリキュラムと、私は考えている。

 

少し整理すると、私は空手愛好者(道場生)を自力で河を泳げるようにすることと同時に新たなステージに立つための架橋が必要だと考えている。指導者がその事を意識し、斯界を変革すれば、斯界は自然と発展するに違いない。なぜなら、人類の進歩に必要な構造と合致しているからである。

 

ところが、斯界が発展しないのは、自身のステージ(立場)を絶対とし、そこに安住しようとする人達がいるからである。私は、そんな人間になりたくはない。

 

ここまで書いて、増田は難儀な奴だと、思われたに違いない。しかし、この未熟で愚かな私を、かわいそうだと思ってくれたのか、協力を約束してくれている道場生がいる。私が云う、架橋を手伝ってくれる者だ。私同様、世間では変わり者かもしれない(失礼)。それゆえ私達はシンパシーを感じている。

 

最後に、私がここでいう河を泳ぎ、新たな陸地(ステージ)に立つとは、組手技における身体操作や組手における、攻防の術に対する認識を変えることだ。はっきり言えば、ほとんどの極真空手家の認識が間違っていると、私は思っている。今のはやり言葉で言えば、「エビデンス(根拠)は?」と突っ込みを入れられるに違いない。もちろん、すべての極真空手家ではないとは思うが、斯界が変革されないところをみれば、そう思わざるを得ない。

 

具体的な事は、私と道場生との間の架橋ともいえる、空手道修練教本の製作を通じて、世に問いたい。

 

私は今、衰える身体をいたわりながら、最後にもう一度、仲間と共に空手道に賭けようと思っている。