本日は、師範代を任せている秋吉が、孤軍奮闘で明日の準備をしていた。
私は、土壇場に駄目出しは悪いと思ったのだが、明日、選手に渡すリーフレットにチェックを入れた(文言に駄目出しを出した。もちろん優しくだが…)。
「増田道場は…身体を楽しむ、空手で遊ぶ…」
「駄目だ」
「身体を楽しむ、空手で遊ぶ…」、私がサイトに掲載しているキャッチコピーだが、これは駄目だ。
私は秋吉に「このフレーズは駄目だ。理解されない」「深い意味があるのだが、まず理解されない」「誤解される可能性が高い」「だから駄目だ」と伝えた。
一方の秋吉も、「そうですね、注釈がないと誤解するかもしれません」と応えた。だが、「遊ぶ」という言葉には、本当は深い意味があり、私にとって重要な概念でもある。
今回は、書き記す時間はないが、簡単に記してみたい。
ここでいう「遊ぶ」という言葉には、不真面目でいい加減な状態や感覚を含意していない。むしろ、「大真面目で」「真剣で」かつ「我をも忘れるぐらい集中している状態や感覚」を含意している。
私は、良い仕事や考えは、すべてそのような状態、感覚の中から生まれると考えている。言い換えれば、良い仕事や考えは、真に自由でリラックスした状態、感覚の中から生まれるということだ。
ただ、大真面目な感じと、何かに囚われているような状態や感覚が似ているように見えるかもしれない。また、いい加減な感じが、自由でリラックスした感じに見えることもあるかもしれない。だが、そのような状態や感覚と、ここでいう「遊ぶ」という感覚とは異なる。
私がいう「遊ぶ」とは、「三昧(さんまい/サマーディ)」の境地に立つことだ。もう少し言えば、大いなる力、働きに身体を任せ、かつ自分の心を自分の枠から飛び立たせる(解放する)ことだ。
やめよう。時間がなくなった。連休中、富士山麓に住む友人宅を訪ねようと思っているが、そこで再考してみよう。
話を戻せば、秋吉は「では、これを載せましょう」と以下のエッセイを持ち出してきた。
以下のエッセイ(私は詩のつもりで書いているのだが…)は、4年ほど前にブログにアップした組手に対する私の考えである。正直、以下のような考えも、みんなには「?マーク」が出るに違いない。しかし、私の組手観だ。
私は秋吉に、身体が動くうちに二人で、「これが組手だ、というのを表現しようじゃないか」と言って、道場を出た。「秋吉がかわいそう…」「秋吉が大変そう…」という声が聞こえるが、私は空手を芸術に近づけたいと考えている。それは、皮相的な勝ち負けという価値観で観るものではない。もし、これが理解されないのなら、私は引退しようと思っている。
【組手を楽しもう】
組手を楽しもう。
そう思うなら、僕の話を聞いてみて。
僕は「技」を「音なき音」だと考える。
音には長短や強弱、高低がある。
また、良い組手には「良い音(技)」とその使い方があるんだ。
最も大事なのは、メロディー(旋律)を奏でることだ。
また、拍子を取ることだ。
良い組手には、拍子(リズム)がある。
組手を「いろんな音(技)」を使った曲作りだと考えてみよう。
基本は、自分の中に音楽をイメージして組手を行ってみて欲しい。
ただ、組手で難しい部分がある。
それは、相手と自分のフレーズを掛け合うジャムセッション的なところだ。
それでも、否、だからこそ、相手は「音(技)」を楽しむためのパートナーと考え、尊重した方が良い。なぜなら、組手は相手と共に「技(音なき音)」を創り、楽しむことだからだ。
実は、音楽の事など、ほとんど解らなない僕だけど、組手をそんな風に考えている
2011年9月記/2015年5月2日加筆修正
