サッカーの限界?「W杯の限界」に異論あり〜その2 | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
サッカーの限界?「W杯の限界」に異論あり~武道家のサッカー論~”その2”


(前回からの続き)


 話しを戻したい。

【ワールドカップ・サッカーは、愛国心を刺激し、人々を熱狂させる力がある】
 
「国(ナショナルチーム)」対「国(ナショナルチーム)」のワールドカップ・サッカーは、愛国心を刺激し、人々を熱狂させる力がある。

 そこがH先生の忌み嫌うところであろう。一方、ワールドカップ・サッカーの存在意義は、「理性を基盤とする、暴力性の昇華手段」だと、私は先述した。

 しかしながら、読者に?マークが出ているに違いない。
「スポーツは感性に訴えかけるものではないのか?」と。ゆえに補足を加えたい。

 私の考えは、スポーツとは、身体、感性を刺激しながら、最後は理性を動かすからこそ面白いと考えている。ゆえに厄介でもある(幾重にもフィルルターがかかり、本質の透視が困難になる)。

【私の直観】
 また私は、「感情が戦争を起すのではない」「理性が戦争を生み出すのだ」と直観している(未発達の理性のみならず、発達した理性も含めて・・・、ゆえに理性を鍛えなければならない)。「感情」とは戦争の「トリガー(引金)」に過ぎない。

 私は、スポーツにおける理性の働きを、自己の情況・態勢をどのように判断し勝利するための行動をとるかだと考えている。また、その情況・態勢を転化・活用し、勝利を獲得するための技術を駆使、あるいは創出する(そこに感性の働きも加わる)。それがスポーツの構造だと考えている。

 さらに、特にチャンピオンスポーツに重要なものを加えるとすれば、「勝利へのパッション(情熱)」である。その情熱は、勝利を得るための技術の体得・創出を目指した、不断の努力に必要なものだ。また、その情熱は、チーム内の選手、一人ひとりになければならない。

 H先生の直観は、「自己の勝利のために必死になる」ような理性のあり方に、言い換えれば、偏狭な愛国心の発露とその操作に「ワールドカップ・サッカーの限界」を感じたのであろう(あまりサッカーのことを深く考えていない可能性が高いが・・・)。

【健全な愛国心】
 しかし、健全な愛国心は、家族愛の延長線上にあるもので、それを拡大していけば、人類愛に繋げられると、私は思っている。また、先述のような構造をスポーツが有するからこそ、理性のあり方を問い直すことができるのだ。そして、「より健全な理性」「より善い理性」の育成に役立つ可能性が生まれるのだ。

 今回のワールドカップ・サッカーは、前大会3位のドイツチームの「勝利への情熱」と「技術力」と「理性」を感じさせた大会であった。また、厳しい国内情勢の中、必死に汚名返上に努力する、アルゼンチン国の「勝利への情熱・渇望」をも感じた。


 私はスポーツの勝敗を分けるのは、「技術力」「知力」「メンタル力(情熱・闘争心)」だと考えている。体力面に関しては、そもそも、チャンピオンスポーツにおいて、体力を強化しない選手は話しにならない(日本人サッカー選手には、その意識が低いかもしれない・・・)。
 さらには、時に浸食、葛藤を生じるような、先述の3つの力と機能を自己制御する訓練がスポーツなのだ。それが観るものの感性のみならず、理性に訴えかけるのだ(私のスポーツ論)。


【H先生の憂慮の核心】

 おそらく、H先生の憂慮の核心は、ワールドカップ・サッカーの疑似戦争化ではないかと考えている。もしそうなら、それは見当違いである。なぜなら、そもそもスポーツには、攻撃衝動の昇華・転化手段としての事実にこそ、真の存在意義がある。また、微力かもしれないが、その事実は戦争を回避する力の養成や気運の醸成に貢献していると思うからだ。ただ、残念なのは、開催国のブラジルがワールドカップサッカーに対して批判的だったことだ。しかし、それはサッカーそのものが悪い訳ではないと思う。

 また、H先生がいわれるような不快な緊張感、即ち非人間的で過度な緊張や空気をつくりあげる源は、サッカーそのものではなく、また選手でもないと思う。そのような緊張や空気をつくりあげているのは、マス・メディアによる「煽り」なのだということをなぜ見抜けないのだろうか(もちろん、マスメディアの良い意味での役割もあると思う)。

 実は幼少の頃の私は、友人の影響で、軍艦や戦車、戦記が好きであったが、軍国主義は嫌いである。

 勿論、私には軍国主義の実感はない。しかし、極限状態において、人間とその集団が、どのように変質するか、書籍を通じ、考えさせられたことが多々ある(多少の経験もある・・・)。一方、軍隊は極限状態を想定しなければならない。そのような状態を日常的に想定せよと言わんばかりに、行動を規制されたら、一般人は不快なのは当然だ(しかしながら、軍事行動には、そのような面が必要になるであろう)。

 当然のことながら、戦争や暴力行為は、人間が選択、実行してはならないことだと、私は思っている。しかしながら、常時、戦争や暴力行為(テロを含む)の現出の可能性に対峙している状態が、我々が生きる現代社会であり、現実だ。

 それが抑制されているのは、「理性を基盤とする、暴力性の昇華手段」や「多様な抑止力」が機能しているからに他ならない。

 私が観た、ワールドカップ・サッカーは、軍事力の格差のある国と国、その国の人間同志が、ひとつのルールを共有し、真剣に遊んでいた(遊ぶというと、誤解を生じると思うが)。人間に内在する、自己保全の欲求・狡さ、暴力性(攻撃性)を前提の上で・・・(ルールの範囲内で承認した上で)。

 だからこそ、人間の狡さや暴力性を昇華する訓練、また過度の暴力性(攻撃性)を理性で抑制、つまり、自己を制御し行動する訓練になるのだ。

 私は、そのような訓練の中、誰もが素晴らしいというモデル(選手やチーム、そして観客も含めて)が現出したとき、大きくいえば、人類が進歩すると考えている(僅かかもしれないが)。
それがスポーツの価値のひとつだ。

【人類の平和共存に対する可能性や希望を見いだす場】

私は、ワールドカップ・サッカーの価値が、単なるサッカー愛好者の晴れの舞台ということであってはならないと思っている。

 少々大仰だが、「人類の平和共存に対する可能性や希望を見いだす場」としての機能としての自覚を持って欲しいと思っている。

 それは、サッカーが、宗教、言語が異なり、経済格差もある現代社会において、それらの影響を受けない公正なもののトップランクに属するものだからだ(勿論、スポーツに経済力の影響があるのは解っている)。

 ここで、スポーツには身体的な格差が影響するのではないか。ゆえに公正とは言えないのではないかという方がいるに違いない。

【体格の格差による影響が比較的少ないスポーツのひとつ】
 しかし、サッカーは、様々なスポーツの中で、体格の格差による影響が比較的少ないスポーツのひとつだと、私は思う。

つまり、サッカーにおける体格の影響は、他のスポーツとの比較で言えば、少ない方だと考えている(異論はあるだろう)。

例えば、「日本人は体格的に劣るので、ワールドカップでは勝てない」という意見がある。本当にそうだろうか。アルゼンチンチームと日本人選手の体格の差がそんなにあるだろうか?

 考えてみて欲しい。バレーボール、アメリカンフットボール、ラグビー等のスポーツは、体格が優れていないと圧倒的に不利である。しかし、上半身を、ほぼ使用不可(ヘディングを除く)のサッカーは、他のスポーツに比べ、アジア人にも勝利する可能性が高いスポーツだと思う。ゆえに、今後も恐れず、日本人の可能性を信じ続けて欲しい。

【サッカー選手とチームに必要な要素】
 
 最後に、サッカーに必要な要素を考えたい。
私は、サッカー選手とチームに必要な要素は「技術力」「知力」「メンタル力(情熱・闘争心)」だと考える。

 まず、優れた技術力には、体力的な基盤が必要である。また優れた知性には、予測不可能とも思える戦いを予測し、優れた技術、戦術を創造する能力(創造性)が内在している。

 さらに、ここでいうメンタル力とは、自分の可能性を信じ続ける力と言い換えても良い。また、挑戦する意志のことだ。そして、そのような力を養成するには、H先生の言葉を逆の意味で転用すれば、「命懸けの真剣さ」が必要なのである。つまり、みんな「命懸けの真剣さ」が足りないから駄目なのだ。

【スポーツの崇高さ】
 私は、スポーツの崇高さとは、「暴力性を内包しながらもそれを理性で抑制し、高次の知性の働きを発揮すること」。同時に「創造的な身体技術を生み出していくところ」にあると思っている。

 また、あえて言おう。その3つの力とは、戦争にも必要な力である。しかしながら、国の繁栄と維持にも必要な力なのだ。

 私は、そのような力を、戦争とは異なる手段である、スポーツという手段で養成する。そのような力は、一人ひとりの人間のみならず、コミュニティー(共同体)にも必要だと思っている。

 できれば、FIFAが各国のサッカーコミュニティーの管理人として、サッカーを通じ、人類の発展と共存に貢献するという志を持って欲しい。

【日本のサッカーとアルゼンチンのサッカーの異なる点をひとつ】
 蛇足ながら、日本のサッカーとアルゼンチンのサッカーの異なる点をひとつ。
 「チャージの」仕方である。ディフェンスの仕方と言い換えても良いかもしれない。
アルゼンチンチームの選手達のチャージ技術・方法は、我が武道、拓真道の理合いと合致する(ちょっとだけ宣伝・・・笑)。一方、日本人のチャージの仕方は、上半身だけだ。あるいは、ボールを持った選手に壁となって立つだけである。もしかすると、危険を回避するために、チャージをしないのだろうか?

 そんな消極的で逃げ腰のディフェンス方法では、体格に勝る選手には勝てないだろう。
私の考えは、チャージも用いたディフェンス方法こそが、体格に劣る(小さいもの)が有利なディフェンス戦術であり、攻撃戦術でもあるのだ(解るかな・・・)。

 サッカー選手にヒントを与えたい。「密着(相手との一体化)こそが、柔よく剛を制すの基本だ」と・・・。


 以上、サッカー素人の私が僭越至極である。しかし、今回のワールドカップサッカーは、私の戦闘理論を検証する、良い題材となったと思っている。