レ・ミゼラブルを観て〜日誌 | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
レ・ミゼラブルを観て

昨年の正月は、脚の手術のため、入院していた。今年こそはと、いつも勇むが、思うように仕事は進まない。昨年も、フリースタイルプロジェクトで1年が終わった。時が過ぎる早さと自分の能力のなさにため息がでる。

仕事の合間に映画を見た。その感想を書き記したが、すぐに会員限定にするかもしれない。少々、感情的になっているかもしれないから。


さて、私は、映画が好きである。
煮詰まった頭を切り替えるために、時々映画館に出かける。


昨日、映画「レ・ミゼラブル」を観た。


この映画の場合、小説の古典的名作、「レ・ミゼラブル」を題材にしたミュージカルの完全映画化らしい。ゆえに、内容を書くことは、ネタバレにはならないだろうが・・・。


先ずは、映画は映画館で観る方が良いと言いたい。
私は、映画館派である。最近は、至る所にシネコンがあるので、映画を見易い環境にある。一方で、古くからある映画館や名画座の撤退が相次いでいる。
非常に残念なことだ。

映画、レ・ミゼラブルは、ミュージカル仕立ての映画である。是非、映画館で観ることをお勧めする。

いつも私は、映画を観ながら、そのテーマを深読みする(余り、良くない趣味かもしれないが)。

私が感じた映画のテーマは、人間が生み出す、善と悪(正邪)、そして、そこから派生する正義。また、権力と法、そして、そこから派生する暴力。それらを包含する社会の中で、良心とは何か?愛とは何か?また、魂の救済とは?ということである。

あくまで、エンターテインメントとして考えた、映画のテーマである(感じ方に差異があるのは当然だし、差異があって良いと思う)。

言い換えれば、多様な人間とその心が織りなす世界像(世界観)に対するコンフリクト(葛藤)と異議申し立てを昇華するのは、人間愛という事になろうか。

ただし、この映画のテーマが「愛」であるということを、私は否定はしないまでも、少し、異なる角度から眺めていた。

私は、人間の核心に「愛」と名付けられたものがあることを否定しない。
しかし、そんなありきたりのことで片付けたくはなかった(ここからが、私の誇大妄想の始まりだ)。

この映画の原作は、200年以上も前のフランスの社会状況を背景にした小説だ。
しかし、現代の社会を、マクロに眺めれば、同様なことが起こっているように見えるのは、私だけだろうか(身内は、ここで誇大妄想だと“突っ込む”のが常だ)。私には、監督からの現代社会のあり方に対する批判の暗号を随所に感じた(勘違いかもしれないが)。

そのように思えるのは、この映画の原作が小説であり、古典的小説には、社会を批判する意識が多分に含まれているからかもしれない。(日本の小説には、少ないように思う)。

その上で、やはり人間を支えるのは、「愛」だということには、異論はない。

少し、脱線するが、おそらく、この映画を良いと感じる人の6割は、女性になるだろう。なぜなら、この映画には、社会というものが産み落としている不条理と、その不条理の被害者となるのは、先ず以て、非力な女性だというような考えを底流に感じるからだ。また、この映画は、女性の役割が非常に高い。私の回りで、映画の序盤からすすり泣く音が聞こえた(ゆえに女性の共感度が高いように想像する)。付け加えれば、女性のみならず、子供も、社会的な不条理の犠牲になることが多いと思う。

序盤のシーンを少しだけ書く。
シングルマザーの女性が幼い娘を育てるために、女工として働いていた。しかし、同じ女工達のいじめにより、クビになる。

その女工は、子供のためにお金が必要だと、泣いて懇願したが、許してもらえず、工場をクビになり、娼婦として働かざるを得なくなった。彼女が最初の客を取った後、自分の女性としての夢が、打ち砕かれたと、泣き叫ぶように謳う。そのシーンで、早くもすすり泣きが聞こえた。私も泣きそうだったが、必死にこらえた。やがて、その女工は、身体を壊し、息を引き取る。

ちなみに、私が好きなのは、もう一人の準ヒロイン(私が勝手にそう思っている)の女性が謳う場面、そして、その女性が息を引き取る場面である。

映画の場面のことを書くのは、この辺で止めておく(泣きたい人は、是非、映画館へ)。

映画では、ジャンバルジャンが、先述の女工の娘を引き取り、自分の娘として、大切に扱う。それは、自分の魂を救うためのものであったかもしれないが、誰かを愛すること、そして、愛するもののためには、命をも賭すということが、生き方として感動するのは、古今東西に共通する感覚であろう。私にも娘がいるので、ジャンバルジャンの気持ちにとても共感した(娘や息子というのは、とても愛しいものだと、ようやく解りかけている)。

最後に、私はこの映画を観て、何故か黒沢映画の「赤ひげ」を思い出した(私は黒沢映画の大ファンである)。

赤ひげのワンシーン、赤ひげ先生が、「あらゆる病気に治療法などない。あるのは貧困と無知との戦いだけだ・・・」と喝破したのを記憶する(確かではないので、今度確かめたい)。

私は、古今東西、悲劇を生み出すのは、無知や貧困の問題、そして哲学の貧困による、差別、対立、貪欲だと考えている。さらに、その根底にあるのは、教育を含めた、社会システム(社会構造)の問題だと考える。

そして、それを変革するのは、知性や権力を有する人間のみならず、一人ひとりの民衆(市民)の良心と行動だと思う。

最初は、映画の話だと思っていたのに、何の話だろうと思われるだろう。私はよく、身内に話が大きくなり過ぎると言われる。確かにそうかもしれない。

しかし、私の興味はすべて、哲学と社会構造に収斂されていく。

私と接する人は、「増田は何を言っているのだろう」と、時々首を傾げる。

おそらく、心の中で、お前ごときが、天下国家を論じても仕方あるまいと、嘲笑しているに違いない。

また、所詮、映画や小説ではないかと言う声、感動する心がある内は、世の中も捨てたものではないという声が聞こえるような気がする(いつもの被害妄想か・・・)。

しかし、それでは駄目だ。私はそう思っている。感動するだけでは駄目だ。本当の感動には、行動が伴うはずだ。行動しないのは、本当に感動していないからだ。或は、本質を掴んでいないからだ。



$増田章の『身体で考える』