拓心武道哲学と初心〜空手武道教本版
世阿弥のいう「初心」とは
能の大家・世阿弥は「初心」を大切にせよ、と語っています。ここでいう「初心」とは、単に「物事を始めたときの気持ちを忘れないこと」というだけではありません。むしろ「初めて物事を認識したときの新鮮な感覚を、自分のものとして大切に残すこと」を意味しているのです。
世阿弥は、芸を極めるには、その時々に生まれる認識を深く理解し、忘れずに心に刻むことが大切だと説きました。天才と呼ばれた彼でさえ、自分の未熟さを常に意識していたのです。その未熟さを糧にし、芸の奥にある生命のようなものを掴み取ろうと努めた。そこに「初心」という言葉の真意があるのでしょう。
人は未熟である限り、成長を続けられる存在です。だからこそ、初心を自覚することが永遠の成長につながるのです。
武道における初心
この考えを拓心武道に置き換えてみましょう。若い頃に培う「技」はもちろん大事です。けれども、それ以上に大切なのは「技の基盤」を理解すること。そして、自分の人生の各段階、青年期ー壮年期ー老年期、に応じた「技の本質」を理解することです。
そうすれば、年を重ねても幅広い技に対応できるし、自分なりの「技」を活かすことができます。つまり、若者の勢いに負けない勝負ができるのです。世阿弥が演技を「観客との立ち会い」と呼んだように、武道の稽古や試合もまた、相手との真剣な「勝負」そのものです。
私自身も若い頃から世阿弥の思想に惹かれてきました。その延長線上に、いまの「拓心武道哲学」があります。
幽玄の境地と武道
世阿弥が目指した「幽玄」という境地は、達人の技を誇ることではありません。むしろ、技を超えてその背後にある「空」を表現すること。人間の生命力の深みを伝えることです。
武道もまた同じです。若い頃に多くの経験を積み、それを大切にするからこそ、年齢を重ねた後でも多様な技に対応できます。そして理想を追い続ける姿勢がなければ、その境地には届きません。また若い人と年長者が共に学び合える場、その土壌が不可欠です。
「花」という美学
世阿弥は「花」という言葉でも芸の真髄を語りました。それは観る人の心に感動や喜びを呼び起こすものです。私は、この「花」と言う言葉は、後に本居宣長が唱えた「もののあわれ」という日本独特の感性にも繋がっているように思います。つまり「初心」も「花」も、人間の人生そのものに対する日本的な美意識に根ざしているのです。
人生を楽しむために
世阿弥が生きた室町時代の感覚をそのまま理解するのは難しいでしょう。しかし「初心」を忘れずに生きることの大切さは、今も変わりません。
人は必ず死を迎える存在です。その宿命は「哀しい」ものかもしれません。けれども、その哀しみを知り、それを大切にする人だけが、その時々の初心を楽しむことができます。そして、初心を生かし続けてこそ、人生の最後まで楽しむことができるのだと思います。
世阿弥は「能」の価値を「寿福増長」、すなわち「人に幸福感をもたらし、長寿を助けるもの」と言いました。私の提唱する拓心武道哲学もまた、人を支え、人生を豊かにするための道だと信じています。