ほぼ1年のブランクを経て最近、スペイン語のオンラインレッスンを再開した。

今回は少し早口なスペイン人の先生。まあ大体の人が早口だが。

スペイン人で1時間12ドルと比較的お安めなのは、最近オンラインを始めたばかりだかららしい。実際生徒も多くなかった。

 

こちらの経験もある程度知っていたからか、レッスン中、「何が好きですか」という下記の表現を足早に説明された。

¿Qué prefiere/le gusta?

 

別に大した文ではないが、ブランクがあったのでちょっと忘れてて、Preferirの主語ってどっちだったかなと思って質問した。PreferirもGustar型の文型上の目的語が実は主語の意味を持つやつだったかなと。よく見たら、leがないので、通常の主語=主語の動詞なのだが、頭の回転がついていかなかった。

 

どう質問したか覚えていないが、こちらの質問が良くなかったのか、ご丁寧にPreferirの活用を説明されたので、再度「一緒に説明されたので、Gustarと混同した。PreferirはGustar型じゃないんだね。」と言うと、今度はGustarの活用の説明。

 

なんだかフラストレーションが溜まって、「そんな文法的な活用は分かっている。同時に説明されたから混同したんだ。」といって不満をぶちまけた。

 

先生側も、「だから使い方の違いを説明したんだ。」と。

このやり取りで雰囲気が悪くなり最後のあいさつで向こうに笑顔がなかった。

 

今冷静になって考えている。俺は一体先生に何を答えてほしかったのだろう。

多分、矢継ぎ早に何を説明されても自分は納得しなかったんじゃないかと。

 

あの時、自分が欲しかった答えは多分「そうか、悪かったね早く進んでしまって。PreferirとGustarは意味は似てるけど、文構造が違うんだよ。」なんて言葉だったのだと思う。

ニュアンスの違いはあるにしても、結果的に先生から回答はもらっている。だが、納得できなかった。先生が当然のごとく進めてしまい、私が混乱したことに対して非を認めて謝ってほしかったのだ。

 

勉強は時にフラストレーションの塊だ。特に語学は言語自体が別の文化の上に成り立っているので、教える側と教えられる側の学力差だけでなく、文化的な背景の違いから質問の意味が取り違えられてしまうことがよくある。そのため、長々と違うポイントを説明され、「俺が聞きたかったのはそこじゃないんだよ。」と言いたくなる苦痛を伴う場面が度々起こる。

 

なので良い先生というのは学力や文化的な常識の差異も踏まえた上で、生徒がどこで躓いてるのかを瞬時に見極め、適切な回答を与える人だと思っていた。

 

数学や物理でも似たようなことがある。数式の処理や現象の理解も長年やってきて身につくマナー、こうしたほうが後々いいに決まってる処理がある。自分が子供に教える時、この子がこの問題の答えに至るどの過程で躓いているのかを見極め、どうやってスマートに、最短で正しい思考過程に持ってきてあげようかと考えていた。

 

ただ、、今回このレッスンの経験を通じて、それだけじゃないかなと思った。論理的に思考過程を正しい道に持ってくることは必要なのだけれども、どうやって持ってくるかということも非常に大事なんだなと、反面教師的にもなるが、その先生と自分自身の反応に気付かされた。

 

正しい思考に導くためにも、まずは間違った道に入ってしまったその分岐点や、その先に進んでしまったことに対しての共感や、結果的にそこに陥らせてしまった教える側の非も(あるかわからないが)認め、気持ちよく正しい思考過程に来てもらうことが必要なんだと思った。

それができるのがいい先生なのではないか。

 

今まで子供に勉強を教えるときは、「こう考えればいいのになんでそっち行っちゃうんだよ?」と言ったり、基礎が理解できていないからと、どんどん前にさかのぼり、反復学習させようとしてきた。つまり強引に「正しい思考過程」に引っ張り込み、これが正解だとゴリ押ししてきたのだ。

 

その結果、息子からは毎回勉強を教える度に反発され、喧嘩してきた。その度に「こいつは何を教えようとしてもだめだ。」と息子を責めて、自分の教え方を変えることはしてこなかった。

 

教えるという行為は単に苦手ポイントを探って教えてあげるだけではない。勉強という頂上の見えない山を登っている人をねぎらい、励まして、正しい道に一緒に手を引っ張り、背中を押してあげることなのだろう。学習者は自分の苦しみを先生に理解して共感してもらいたいのだ。

 

今回自分が教えられる側の立場として、教えることの難しさを認識することができた。自分が教える場合にも子供の思考やフラストレーションの状態を考えて、共感し寄り添うような教え方を実践していかなければならないと思った。