ソーシャルビジネスからエヴァの缶詰まで、広がる“おいしい”保存食の活躍(後編) | 彼女のマスターキー(レビューサイト)

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ソーシャルビジネスからエヴァの缶詰まで、広がる“おいしい”保存食の活躍(後編)
一般企業も活用している、パン・アキモトのパンの缶詰
 栃木県北部の田園地帯に本社を置く小さなベーカリーでありながら、世界を舞台にしたソーシャルビジネスを展開するパン・アキモト。

【画像:『新世紀エヴァンゲリオン』、『もしドラ』のパンの缶詰、ほか】

 前編では同社の顔とも言うべき「パンの缶詰」の商品力と、これを最大限に活用するビジネス・モデル「救缶鳥プロジェクト」の概要についてご紹介した。そして東日本大震災で自ら被災しつつも、東北地方の被災地に対して、数々の困難を乗り越え、ビジネスとして支援活動を継続させてきたその姿をご紹介した。

 今回の後編では、そもそもパンの缶詰や救缶鳥プロジェクトという、世界に類例を見ない商品や被災地支援システムが、どのようなビジネスプロセスの中から形成されてきたのか、その過程を明らかにしたいと思う。そして、秋元さんが、今、どこに向かおうとしているのか、事業承継の問題も含めて、新しい展開について紹介したい。

●原点は阪神・淡路大震災の被災地教会支援

 「パン・アキモトの創業者である父は、戦前から戦中にかけて大日本航空(現在のJAL)で、国際線の無線通信士を務めていて、英語やフランス語に堪能な当時としては珍しい国際派で、また熱心なクリスチャンでもありました。

 終戦直後の1947年に脱サラして、故郷の那須塩原で『秋元パン店』を始めました。その背景には、敗戦の混乱の中で食糧難に苦しむ人々を助けたいという気持ちがあったようです。同時に『これから日本人の生活は欧風化し、パン食が一般化する』という環境変化への読みがあったと聞いています。

 そして何よりも父自身が仕事柄、長年にわたって各国のパンに慣れ親しんでいたこともあって、当時の日本人としてはパンに対する知識や経験が豊富だったという点に強みを感じていたようです。さらに言えば、戦地に行っていないとはいえ、父の思いとして『アジアに償いをしたい』というのがあって、パンの製造技術を学びたいアジアの人々を集めて訓練し、製造機材とともに帰国させてあげようという意図があって創業したと聞いています。

 私自身は、1976年に法政大学経営学部を出てから2年間都内のパン屋で修行し、帰郷後に跡取りになったのですが、大きな転機が訪れたのは1995年です。

 この年に阪神・淡路大震災が発生したわけですが、父はクリスチャンだったことから関係の深かった神戸の教会に対して「パン屋として何か手伝えないだろうか」という思いに駆られたのです。そこで焼きたてのパンをトラックでリレー輸送して被災地の教会に送ったのですが、輸送に時間がかかったこともあって、結局、約3割のパンが廃棄されてしまいました。

 パン職人として、こんなに残念なことはありませんよね。1人でも多くの人に喜んでもらおうと思って丹精込めて焼いたパンですから。でも、それは先方も同様で、というよりは、先方にとってはより切羽詰まった問題だったでしょう。おいしくて保存性のあるパンを作って送ることが、その時から、双方にとっての緊急の課題になったのです」

 被災地・神戸からの熱い期待を背に受けて、開発は順調に進んだのだろうか?

 「難航しましたね。おいしさと保存性は両立が難しく、何度も実験しては失敗ということを繰り返しました。

 突破口が見出せないでいたある日、たまたま近所の農産加工場を通りかかったんです。そこでは地元の産品を缶詰にして出荷しているのですが、その製造ラインを見た瞬間、『そうだ! これはパンにも応用できるかもしれない』とひらめいたのです」

 それこそが「パンの缶詰」というコンセプトが生まれた瞬間だった。

●ついにパンの缶詰が誕生! したものの……

 「パンを缶詰にするためには無菌状態を作り出さないといけません。そこで最初は、焼いたパンを消毒した缶に入れようとしたのですが、そのやり方ではダメでした。だったら、いっそのこと、パンの生地を缶に入れた状態で缶ごと焼いてしまおうと考えたんです。

 ところが、それをすると今度は結露してしまい、ふやけたパンが缶の内壁にベッタリとくっついてしまうんですね。試行錯誤を繰り返した結果、缶の内部に紙を敷くという解決策を編み出したのです。

 そのヒントをくれたのが日本家屋の障子です。障子は湿度の高い日本で、室内の湿気を調節する機能も果たしてきたわけですが、缶内に敷いた紙がそれと同じ機能を果たし得ると考え付いたのです。和紙では探せなかったのですが、幸いなことに良い紙が見つかり、パンのしっとり感を保ったまま、無菌状態で長期保存することが可能になりました」

 阪神・淡路大震災から約1年がかりで開発に成功したパンの缶詰であったが、当初は“面白グッズ”としか見られず、あまり売れなかったという。「毎年、9月1日の防災の日にだけよく売れましたよ」と秋元さんは苦笑する。

 そんな状況を一変させたのが、2004年10月に発生した新潟県中越地震だった。

 「地震発生直後にパンの缶詰を持って現地入りしました。被災から1週間で現地の学校は授業を再開したのですが、給食施設が被害を受けていて、パンの缶詰が給食として出されたのを初め、山古志村など多くの地区で被災された方々に食べていただけました。お役に立てた喜びは大きかったですね」

 しかしその一方で、すでに災害用非常食としてパンの缶詰を備蓄してくれていた自治体から「新しいものを買いたい。賞味期限の切れるものは処分してほしい」との要望を受け、秋元さんは、非常食の宿命とも言うべき廃棄の問題に行き当たり、思案に暮れていた。

 そんな折、新潟県中越地震からわずか2カ月後、今度は、インドネシアのスマトラ島沖で大地震が起き、大津波が発生。秋元さんは被災地スリランカの政府関係者から「現地では食べ物が不足している。中古でいいからパンの缶詰を送ってほしい」という要望を受ける。

 それを聞いた瞬間、いずれ廃棄される運命の非常食としてのパンの缶詰を、海外の被災地や飢餓地帯に送ることで生かすことができるのではないかと閃く。救缶鳥プロジェクトのベースとしての保存食リユース・システムのアウトラインが、ついにその姿を現わしたのである。

●沖縄進出で役所の前例主義を打破した、交渉の極意とは?

 新潟県中越地震をきっかけに、パンの缶詰は災害備蓄用非常食として一挙に名をあげる。パン・アキモトのもとには、全国各地から引き合いが殺到して、那須塩原の工場だけでは到底、生産が追いつかない状況になっていた。

 「沖縄県うるま市から工場進出の誘致を受けましてね。現地の製造環境も良く、また私自身、沖縄が大好きということもあって(笑)、沖縄に工場を出すことを決めました」

 即断即決した沖縄進出だったが、実はそこからが大変だったようだ。

 「いざ沖縄に進出しようとすると、今度は先方の役所がなかなか動こうとしないんですよ。『その件なら、2カ月後に開かれる審査会で採否が決定します』といった具合で、手続き1つ1つにイチイチ時間がかかるんです。そんな調子では、一体いつになったら沖縄で操業を開始できるのか、まったくメドも立ちません。こっちは増産体制を整えることが、待ったなしの状況にあったわけですから、すべて先方のペースに合わせていては大変なことになります」

 すべてにおいて前例主義を採る役所の壁をどうやって突き崩していくか? 今でも多くの経営者やビジネスパーソンにとって頭の痛い問題だ。

 「私のモットーは“前例がないからやってみよう!”なんですがね……。役所はその真逆なので、いささか骨が折れますよ」と秋元さんも苦笑する。

 秋元さんは結果的にそうした前例を次々に打ち破ることに成功したわけだが、その成功要因は何だったのだろうか? 難しい交渉にどういう姿勢で臨んだらよいかなど、秋元さんのスタイルをお聞きしたい。

 「私の場合、大学時代に英語弁論部(ESS)に在籍し、ディベートをやっていたので、話の筋を通すということには多少慣れていたかもしれません。

 1980年代に行政改革で鳴らした土光敏夫さんの講演をお聞きする機会に恵まれたのですが、土光さんのお話の中で『正しきものは強くあれ』(土光氏の実母の教え)という言葉に特に感銘を受けて、以来、私自身も正しいと確信していることを述べる時には、正々堂々と振る舞うようにしています。沖縄進出の際も『そうすることが沖縄県民のみなさまのため』という点を明確に主張し続けました。

 ただ、気を付けなければいけないのは、いくら正論だからといっても、相手を完膚なきまで叩きつぶすと『窮鼠(きゅうそ)猫をかむ』という事態になりますし、相手の立場に対する一定の配慮は当然、必要だと思います。

 もう1つは、普段から人と人とのつながりを大事にして、いざという時にはそれを有効活用させていただき、人に動いてもらうということでしょうか?

 私はよく『気楽に頑張れ』と言います。一見矛盾した表現ですがその意味は、自分が頑張るのは当たり前のことで、それでもどうにもならない時に気楽にSOSを出せるような環境を普段から作っておくことが大切だということです。要は『あいつのために何とかしてやろう』と思ってもらえるような、普段からの頑張りと人間関係作りですね。

 さらに言えば、いざとなったら自分が責任を取るという姿勢を常に明確にすることと、『走りながら考える』というスピード感でしょうか」

 こうした姿勢を貫くことで、秋元さんはいち早く沖縄工場の操業を開始できたわけだが、それが可能になったファクターとして、私はもう1項付け加えておきたい。それは、秋元さんが長年にわたって、社長業とは別にメディア関連の仕事にも携わっていることだ。

 経営者やビジネスパーソンは、プロとしての専門性を追求していく過程でしばしば視野狭窄に陥りがちだが、記事を書くレポーターとしての活動が、秋元さんに大所高所からモノを見る視点を常に与え続けていたことは重要だろう。そのことは本連載でもインタビューした西山温泉慶雲館の第52代当主・深澤雄二さんが政治家として長年活動したことで経営の視点を広げたことと共通する。

●トラックの空便利用のアイデアで救缶鳥プロジェクト誕生

 沖縄工場の操業も軌道に乗り、社会のニーズにも対応できるようになった秋元さんは保存食リユース・システムの完成に鋭意取り組んでいく。

 37カ月の賞味期限を持つパンの缶詰を、企業や自治体、学校などに災害備蓄用非常食として購入してもらう。幸いにして地震や豪雨被害などの災厄に遭わなければ、2年後に新しい缶詰への入れ替えの案内を出す。それに応じてくれた顧客には、一定額のディスカウントをして次の2年分を届けるとともに、それまで備蓄していた缶詰を回収する。回収した缶詰は、主として海外の飢餓に苦しむ地域や、災害によって大きな被害が出ている被災地へと届ける。

 このシステムは大口の企業や役所、学校や団体などに多数採用され、各方面でパンの缶詰の備蓄が進んでいたが、秋元さんとしては小ロットでもそれができるようにして、個人客の参加をうながしたいと思っていた。

 しかし、それを実現するためには、小ロットの回収でもいとわず廉価で引き受けてくれる大手運送会社の協力が不可欠だ。ところが……。

 「何度交渉しても断られました。先方としてはこれまでに経験のないことですし、何より自社としてのビジネス・メリットが感じられなかったのでしょう。それで私たちとしても、一体どうすれば運送会社のメリットを創出できるか必死で考え続けました。

 そして思いついたんです。『運送会社のトラックって、帰路は要するに空便でしょ。だったら、その空便を使わせてよ。少しお金も払うから』というのはどうだろうと。そして、この新しいビジネス・モデルでもう一度交渉に臨んだのです。それでようやく小ロットの回収が可能になりました」

 保存食リユース・システムを小ロットの個人客にまで拡大した救缶鳥プロジェクトは、こうしてヤマト運輸の協力を得た末に完成した。2010年2月のことであった。

●ハイチ大地震でも現地支援を陣頭指揮

 2010年1月、秋元さんが大手運送会社と上記の詰めの交渉をしていた時、中米ハイチで大地震が発生した。死者は23万人に達し、衛生状態の悪さから現地ではコレラが流行。さらに治安の悪化で略奪や誘拐、レイプが横行した。

 こうした苛酷な現地情勢を踏まえつつ、秋元さんはハイチへ向かうことを決意する。

 「ハイチには回収したパンの缶詰を3万缶持っていこうとしたのですが、日本政府からは輸送を拒否されました。例によって『前例がないから』という理由です(笑)。そこで、ここでも人脈を活用して代議士ルートで局面打開を図ったところ、条件付でOKが出ました。

 ところが、その条件たるや実施不可能な内容ばかりで、と言いますか、我々にハイチ支援をやらせないために、そうした無理難題をわざわざ考え出したという感じでした。

 日本政府は話にならないということで、私としても奥の手を使って結局FedExで運ぶことにしました。もちろんFedExにとってのメリットをしっかり創出し、それをアピールした結果ですけどね(笑)」

 人口の多くが貧困層とされるハイチにおいて、被災して心身ともに疲れ果て、着衣も汚れた現地の子どもたちが、パン・アキモトのパンの缶詰をむさぼるようにして食べる姿が報道されたのは、それからほどなくしてのことだった。

 子どもたちは目を輝かせ、満面の笑みを浮かべて言った。

 「こんなにおいしいパンを食べたのは生まれて初めて!」

●社長引退後の展望は

 それから1年2カ月、東日本大震災が発生した。震災発生時から現在に至るまでの秋元さんとパン・アキモトの動きについては前編で詳述した。震災直後の混乱と繁忙が少しずつ落ち着いてきた今、秋元さんは自分自身とパン・アキモトとを新しいステージへと導こうとしているようだ。

 秋元さんは2男2女と子宝に恵まれ、2人の子息はともにパン・アキモトで働いている。

 「我が家には4人の子どもがいますが、パンの缶詰は5番目の子どもだと思っています。その5番目の子どもの世話を遠からず2人の息子たちに任せようかと思っているんですよ」

 一瞬耳を疑った私は、慎重に確認してみた。それは事業承継ということだろうか?

 「そういうことです。私があまりやり過ぎると、息子たちにプレッシャーになってしまいますから……」

 そう言って相好を崩す秋元さんだが、まだ58歳の若さである。秋元さん自身は今後、どういう立場でどのような活動をするつもりだろうか?

 「私自身はパン・アキモトの経営の第一線を退いたら、地域の防災備蓄と社会貢献を目的とした新しいNPO法人の運営に携わる予定です」

 その具体的な内容は。

 「そのNPOでは企業から寄付金を募り、そのお金でパン・アキモトの缶詰を購入します。そして、寄付してくれた企業のマークを缶に貼り、その企業に備蓄してもらいます。そして企業の事業所所在地で災害が発生した場合には、この備蓄分を使ってもらいます。また、ほかの地方で大きな災害が発生した場合には、備蓄分の2分の1を放出してもらい被災地に届けます。

 幸いにしてそうした災害が発生しなかった場合には2年後に再度寄付の呼びかけをして、応じてくれた場合には新しいパンの缶詰を購入し、また備蓄してもらいます。そして古い缶詰は回収して、世界各国の飢餓地帯や被災地で苦しんでいる人々のところへと届けます。

 寄付企業にとっては、自社の災害用備蓄ができると同時に国際貢献にもなり、しかも自社のマークを貼った缶詰が世界各国へと送られるわけですから、大きな宣伝効果も期待できるわけです。こうした寄付は、全国の企業から募る予定です。

 また、このNPO法人で扱う商品はパンの缶詰だけではありません。現在の構想では、地元の那須塩原にある私の仲間の会社で扱っているふとんや毛布、水なども含める方向で考えていますし、品揃えは順次拡大していく予定です」

 事業承継とはいえ“完全撤退”ではなく、パン・アキモトの現場のかじ取りを2人の息子さんに任せつつ、秋元さん自身は外から支援する体制を取るということだ。

 秋元さんはこれからの日本の災害備蓄や災害支援、さらには海外の災害支援のあり方について独自の見解を示す。

 「私は最近、中央官庁のトップに対して提言しているのですが、エコポイントならぬ“ソーシャルポイント”を創設してはどうだろうかと考えています。それを実現すれば国民による非常食などの備蓄率が高まり、その分、国家の備蓄費用は低減します。そして2年経過した備蓄品が海外の支援に使われれば、莫大な国際貢献になるわけです」

 それに対する官庁側の第一声が「前例がないので……」であることは容易に察しがつく話であるが、東日本大震災という未曾有の大災厄を経験した日本国として、その犠牲を無駄にしないためにも、今こそ新しい第1歩を踏み出してもよいのではないだろうか?

●エヴァやメイドカフェのプライベートブランドも

 パン・アキモトの活動について明らかにしてきたが、実はそうした災害備蓄用保存食とはまったく無縁と思われるところで、我々は思わず知らずパン・アキモトの商品に触れ、あるいは目にしてきたであろうことをご存じだろうか?

 そうした特筆すべき変化球の1つとして、多様極まりないプライベートブランドの存在がある。パン・アキモトでは世の中で話題になっている漫画やアニメ、小説や映画、イベントなどとコラボレーションしたパンの缶詰をOEM生産しているのである。しかもその多様さは、この分野に詳しいと自称する編集者H氏も絶句するほど!

 主要なものだけを挙げても、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』『ゲゲゲの鬼太郎』『新世紀エヴァンゲリオン』『CLANNAD』など。

 そして取材当日、工場でちょうど作っていたのが今年1月~3月に放映されたアニメ『インフィニット・ストラトス』。さらには秋葉原のメイドカフェ「@ほぉ~むcafe」まである。それぞれのファンにとっては、まさに“垂涎の的”とも称すべきお宝グッズであろう。JR秋葉原駅の総武線ホームの自動販売機で買えるものもあると聞く。

 「こうしたプライベートブランドはパンの缶詰ができて間もないころから作り始め、今では売り上げの10%以上を占めるまでになりました」と秋元さんは言う。

 いかに東日本大震災があったとはいえ、全国の生活者がパンの缶詰の魅力や有用性に一斉に開眼するわけではない。こうした限定生産のプライベートブランドを通じて初めてパンの缶詰を知り、それをきっかけに救缶鳥プロジェクトに参加するケースも多々出てくるだろう。

 「プライベートブランドは小ロットでもお引き受けしています。ですから、例えば結婚式の引き出物とか、何かの記念の品として少数お作りになりたい時など、ぜひお申し出ください」

 そう言われて会議室の棚に目をやると、なるほど本当に一般の方々の結婚記念の缶詰が置かれていた。「いきなり救缶鳥プロジェクト参加というのは、いささかハードルが高い」という人にも、これはお勧めだ。

●スペースシャトルも採用

 プライベートブランドの多様な展開と並んで、パン・アキモトの特筆すべき変化球として触れないといけないのが、パンの缶詰のスペースシャトルへの採用だろう。

 沖縄工場で製造されたパンの缶詰が2009年、「SPACE BREAD」として若田光一さん搭乗のスペースシャトル「エンデバー」に乗って宇宙へと旅立ったのである。

 秋元さんは、当時をこう振り返る。

 「以前からNASAの関係者にはパンの缶詰の現物を見てもらい、その品質特性などを知ってもらっていたという経緯がありました。

 それに加えて、沖縄工場が駐留米軍の基地内(カミサリー)でパンを販売するために、米国のフードインスペクターの許可証を取得していたこと、そしてパンの缶詰が日本や中国、台湾と並んで米国で特許を取っていたなどが採用の決め手になったようです」

 災害備蓄用の保存食や非常食といったものは、今回の大震災のような特殊な局面で一時的に脚光を浴びることはあっても、平常時には陰に隠れた目立たない存在である。しかし、できれば常日頃からこうした商品の存在を知り、非常時に備えると同時に、海外の飢餓や災害への支援を心がけることもまた重要だろう。

 そういう意味において、非常食としての本来の用途とはやや異なるものの、プライベートブランドやスペースシャトルでの採用といったような話題性のある露出は、やがて救缶鳥プロジェクトへと進む最初のきっかけを人々に与えるという点で、重要な役割を果たしていると言えるだろう。

 読者のみなさまも、まずは上記のようなプライベートブランドからパンの缶詰の世界に触れてみてはいかがだろうか?

【嶋田淑之,Business Media 誠】



「この記事の著作権はBusiness Media 誠に帰属します。」




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