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masterik - 新しい朝が来た!(仮)

ブログの再会。

と、いうか再出発。

タイトルはまだ考えついてないから、思いつき?!


思へばこの世は常の住処にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立って無情の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立って有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
何もかもが一瞬のできごととして形を成さぬのが世の常。それは至極当たり前のことである。
しかし、いつのまにか同じ日々がこのまま続けば、なんて楽だろうかと怠けぐせがついてしまった。

気づけば、何もせぬことがただ死ぬことを待つのみと覚える。そうはいっても、どうにかしなければいけないと気持ちが急くが、そのどうにかする状態を当の昔に忘れてしまっている。はてさて、ぼくは死ぬばかりか。
と、いうのが現在の日本を取り巻く状況かと思う。
ぼくが世の中の大きさや形が見えてきた状況というのは、心地よい陶酔感が体を覆ううちに足を滑らして思わず崖の下に落とされてしまったが、さて、どうしたものかと途方にくれるタイミングに社会に出たように思う。

で、ちょっとだけ光が見えて、すがってみた人は社会に少し前に出ていろいろ知っているので道の案内ぐらいは便りにできるだろうというところだった。
その人は普通の人よりは知識もあり考える力もあると思われたのであたりくじと思ってついてきたわけだ。が、しかし、後になってわかることだったが、その人は社会が調子にのっているときに世界を知った人だった。
そのため、いろいろ知っているといっても見栄のための知の武装をしているだけで、実際のところそれほど頭のよくない人間だし、社会をまるでわかっていなかった。ただ、波の最先端に乗ろうとして努力をしたことがあるが、波の起こす方法をまるでしらなかった。

あんた、博士号までとって会社の中で特別に扱われて、それでいてこれかよって感じだ。その人はまるでベースがなかったんだ。いっちょまえのことをいうくせに本当のことは何もわかってなくて、自分に形がない。
最後には無責任にも自分の能力の限界が相手に見透かされるのが恐くて、ぼくを放り出した。そのとき、ぼくはどうしていいのか、途方にくれたよ。その人に裏切られたことなんて、まあ、その程度相手だったんだなと思えばよかったが、その先に進むための経験則みたいなものが、圧倒的にたりてなく、この先の当たりがまったく掴めないのだ。この先、粘ってその人についたところで、何も学ぶものがないということはわかったし、かといって誰を探せばいいのかなんて見当もつかなかった。

すべてが崩れたことだけが記憶に残り、何かが作られるイメージが湧かない。いや、そもそも、自分の立っている場所ですら地面があるとは思えない。何もかもが形を成さず、時間も進むのだが、いつもの浮遊する時間がそのまま続き、実は時が経たないのかもしれないと思いさえした。ま、そんなこんなで、生まれてときは同じくらいではあろう人間がそれぞれの世界を構築しているのに、ぼくときたら、手応えがまるで湧かず、時間が逆戻りしているとさえ錯覚してしまうくらい拙い。もちろん、悪い意味でね。でね、何が言いたいかと。

それはね、社会の圧力は若い人に対して、どうせどーにかならんのだから、何をやっても無駄っていう人と、何をやっても大丈夫という、無責任に放言している。誰がいうかというと、自分の安全な領域から出てこないで舞台を楽しんでいる大人たちだ。投げ銭さえもしぶって、ただ自分たちだけが何も動かず楽しもうとしている。身の切り方を知らない。

例えば、金貸しに金を貸せというと、そのお金は多くなって帰ってくるのかという視点のみで、そのことが社会をどう変えるのかなんてのは、これっぽちも考えない。もし、若者を応援したい、社会を変えたいと思うなら、理由なんか聞かず下調べなんかもせず、目を見てだまって金庫をもってくるだろ。可能性は形になってないからこそ可能性だってことがまるでわかってない。どんなに計算したって、確率なんてでないよ。そこから出てこない人間には何もわからないってことがまるでわかってない。

結局、そんなもんだ。あー、何を言ってるのかな。

とにかく、今の状態をどーにかしないとな。

どうしようかな。今の仕事・・・言ってる見込みほどでなかったし、そもそも大きな見落としがたくさんあって致命的だろと思えるのだが、とりあえずできることはすべてやってからかな。
やっぱり、仕組みは自分でつくらなければダメだな。もちろん、仕組みをつくりあげるのが得意だっていっても、その仕組みを動かすさらに根本的なルールまでも自分でコントロールできないと、危なくて手をつけるべきじゃないな。
むかしから、人は人の上を乗り越えてきた。

誰かがいったことは、誰かが自分なりにアレンジしてその時代を生き残るように工夫してきた。

ただ、その流れにあがらうかのように、自分のオリジナルを主張することを権利としてルールも明文化された。

その象徴が著作権である。

創作の時点で本人の付与される権利であり、各種の使用及び利用する権利は本人の許可により、権限を渡される。

その中で不思議に思ったのが、盗作という行為である。

作品が作者の手を離れて社会の知るところになったころには、作品の受け手はそれぞれの生き方の中で自分なりの意味を見出し、それが作品を形づくってくる。

そのような行為の中で鑑賞者にとって盗作という行為がはたして問題になるのかなんて思ったりした。
盗作された人、盗作した人の間ではそれぞれ権利侵害、及び収益機会の逸失といったことが問題になるが、第三者にとっての作品とはもう利害関係者の手を離れて、作品そのものの持つ力に魅了されているはずであるのでそんなの些細な問題になるはずだ。

そりゃ、社会の中で自分のオリジナルを侵害された人間がそれに対抗できる仕組みがあることは賛成だが、作品そのものの中にそのことが反映するなんてことはほとんどないことだから、第3者が罰することは筋違いかなとも思ったりもした。

ネット社会の反映はコピペの文化により多様になってきており、いちいちお金をかけて権利者のことまで考えずに創作活動ができないものなのかという空気もある。
だって、しょせんは人がすることであり、その着想は何かからの出発であり、完全なオリジナルからの創作よりも他人のアイディアの再編集により新たな作品が生まれることが多い。
それに、盗作にしろ本物にしろ本当に力があれば、その作品は独り立ちしてたくさんの人を惹きつける。
その作品の価値というか意味というか力が偽者であれば誰も見向きもしない。

普段、日本人が書く日本語はもとはいえば、中国の高僧や武将、文官の書いた文字を模写することで伝わっている。
自分の捜索でない文字を日々書いている上で、本人たちが自分のオリジナルだからと世に模写を禁じていたらどうなっていただろうか。

著作権は著作者の死後、何十年死後まで保護されるとかおかしな話だよなと思ったりもしたんで、ちょっと考えてみた。
別に書くに気になれないとかはないけど、いつの間にか時間がたっていた。

というか、何を考えているのだろうか。

日々、いろいろと頭の中をかけめぐるのだが、何かこう、留まっていないような。

本当は何も考えていないのかしれない。

本当のぼくはものすごく怠惰。

だから、ムダを無意識のまま楽しんでいるのかもしれない。