例えば、小学校4年生のときに、誰かから奨められてアマチュア無線技師の免許取得講習会を受講したときだ。
無線をやることに別に興味があるわけでもなかったが、新しいことを知ることが楽しい、まあ、いうなれば好奇心の第一歩みたいなところで受講してみようかな、みたいな感じだった。
心の底からやりたいと思えるようなことだったことは確かだ。
実際、講習会を受けての様子なのだが、記憶がうろ覚えだが目の前のことに集中はしていたのだが、その本当の意味が何かを理解していたわけではない。
ただ、字面の追っていることは正確に理解はしていた。
棒読みの感覚である。
それで、最後の講習会は免許の試験になるわけであるが、当日、ぼくは特に緊張するわけでもなく、マークシートの答案用紙を見ながら、問題用紙がどんなものかをみることがいつもと変わらない風景だろくらいに考えていた。
試験開始で、問題用紙をめくるわけだが、難なく解くことができた。おそらく100点満点だったと思う。
答えがあっているかどうかだけでなく、選択肢の一つ一つがどう間違っているかもわかってしまっていたからだ。
授業以外では教科書を開くことはしなかった。
それでも、簡単だなとは思っていた。
でも、そんな勉強方法も年を重ねるごとに難しくなってきた。
とりあえず、暗記なんてことが難しくなってきたからだ。
どんなわけなのかは知らないが、とにかく日本語に疎くなってくるのである。
普通の文章もときには理解できないことすらあった。
で、どうにかしなければいけないと思い始めたときに、問題をひたすらやるということだけでなく、問題の種類を分けるということをしだすのである。
そうすることで、何が問題なのかを理解することができるので、何に注目したらいいのかわかるようになる。
でも、それでも限界がくるものだ。
大人になって、受ける試験はその問題の形を覚えたところで、形が多いために結局、何が大事なのかわからないのである。
そして、その次に考えたのが、教科書にインデックスをつけたことだ。
どの場所で問題が出るのかを見つけるためだ。
ただ、問題の場所は出題者が出したところだけを注目していることになり、其の部分を理解しただけじゃ全てを理解したことにならないことに気付く。
ここでようやく気付くのである。
他人の問題と自分の問題は異なる。
自分が理解していることと他人が理解していることは違う。
他人が知っていることと自分の知っていることは違う。
自分が理解していないことと他人の理解していないことは違う。
そんなこんないろいろな違い。
だから、理解するのは理解するということがどれだけ困難なのかということだ。
で、さらに考えたのは、何について知っているかということを知れば、相当理解が簡単になるのでないかということ。
相手との話の中で、どこの何を話しているのかわかるには、専門用語でもいいし、特定の場面でもいいし、とにかく自分と相手の中ではっきりとわかることを文章化した言葉だ。
また、ある事柄は意味することが何かを探すときには、その事柄が何で成り立っているか、ひとつひとつ確認してしていくことだ。そして、一つ一つを結びつけて、知りたいことを理解する。
こんな感じの繰り返しでいろいろなことが理解できてくる。
そう、小さい頃と違って手順を踏まなければわからないし、わからないことは覚えられない。
大事なのは名前をつけて、それを順番に整理することなのだ。
そして、順番に整理されたことが、たて・よこ・ななめとある事柄の意味が揺れないことで、それを身についたというようになるのだと思う。
長々となったが、こつこつと一つ一つを見極めて、順番を知ることが大事なことなんだと思う。
