小学校4年頃だったと思う。
図書室は2回の東側の奥で職員室の真上にあった。
当時、休みのたびに一人暮らしをしている祖父の家に預けられて、友達がまわりに一切いない状況の中で本を友達にして時間を過ごしたことを覚えている。
そして、まだ漫画を読むということを覚えていなくて、もっぱら活字ばかりだった。
小学生の読む本なのだから、語彙を簡単にして、ストーリーの大筋がはずれないようにディテールをなるべく省いた児童文学を何冊も読み漁っていたと思う。
思い出したのは、孫悟空のはなし。
読み飽きないように、読後感を抱かせるように、何冊に分けられて、数ページに一箇所挿絵があったと思う。
その当時は、本当に純粋に本が大好きで、物語の中に没頭するとほかのことは何も目にはいらなくなり、何時間も何時間も固まったままだった。
誰かに話しかけられても気付かないこともあったと思う。
いま、思うとその集中力はすごいと思う自分でもびっくりするくらいだ。
本を読むことのどこが自分を夢中にさせたのかを考えてみると、多分世界がどんどん広がっていくことが楽しかったのだと思う。
大人になると、何かを知るために頁をめくることが多くなるのかもしれないが、そこには半分くらい義務と必要とかが紛れ込んでいて、ちょっと圧迫感とか切迫感みたいなことが紛れ込んでいるので、心底楽しめることもあまりないと感じる。
でも、子供のときの本に対する執着心みたいなものは、読み奨めるうちにだんだんといろいろなことがわかってくるのであるが、そのわかった内容自体よりも分かっていくとその時間が楽しかったのだと。
そう思うと、今は、文面を追う以外に自分の身の回りにも充分に気を張り巡らしている。
そのため、寝つきもそれほどよくなくて、少しの気配が瞼を押し上げるくらいだ。
ところで、活字離れが言われて久しいが本当なのかなと思った。
昔ながらの書店は確かに客の入りも少ないと思うが、大型チェーンに関しても棚に並んでいる本の冊数と比較しても少ないように感じる。
でも、その一方で誰もが常に携帯しているモバイルの液晶画面の向こうには活字が広がっている。
何故なのかずっと考えていたが、相手が返事しないってことと、お金の問題かな。
読書は基本的に自分の中のことだ。
何を読んでいるのかを人が観察できても、どんなふうに読んでいるのかなんてわからない。
どの頁をどの部分をどのくらいの速さで読みすぎていくのかとか、
読んでいる内容がどんなふうに心の中に響いているかとか、
どんな部分がわからないでつまづいているのかと、
そんなことだが、そのことに対して反応は自分が思ったり、考えたり、感じたりといったことへの認識だけだ。
その感触が形をもってはっきりしていることもあるが、そうでなくなんとなく曖昧であることも多い。
そのことが本を読むときに、自分を孤独にして寂しさや不安を煽ることもあって、あるいは何も響くものがなくて読むのをあきらめてしまうこともあるのだろう。
あと、現実問題としてお金の問題がある。
自分にとっと必要な情報交換手段としては携帯のほうが身近であるが、それに比べて本は多少時間を置いて、手にとるものだから、まず機会をつくるのに負けてしまっている。
それと、本は通信費に比べて高いと感じる人が多いのではないか。
安くても600円とか700円するから、それに比べて自分の必要な情報を手に入れるための値段としては読む時間も合わせると高いと感じるかもしれない。
ま、自分は基本、活字中毒なので、気にはしないのですが、それでもときどき思うのですよ。
もっと効率よい本の読み方ってないものなのか、と。
いや、その時点で楽しめない時間があるってことになってしまうのですが。
まあ、いずれにしろ本を読む楽しみを基本、世界が広がるあのワクワク感だってことを思い出したのでした。