タイトル我ながらカッコイイー…どっちでもいいが。
変な夢を見る。自宅が昔社会見学で訪れた古民家で、いかにも観光地らしくジャージの中学生がぞくぞくと家に侵入してくる。愛犬とじゃれてたら犬の上半身と下半身が分離し、体にフンがかかってしまう、あとは忘れた。
で、夢の世界は自由でいいなあと現実逃避し寝覚めのマイルドセブン吸ってたら、この現実の不自由さの犯人探しを考え始めた。当たり前の事だが、リアリズムは身体性に端を発する。手に届く範囲でしか、人は認識を獲得できない。現実逃避なので、何とかそれを超克出来ないか、方法を探るに、まず理想は高く、身体性の延長線上に無いものを模索する。
旅で比較法とか新たなトモダチで集合知への参画とか、面倒なのでナシ。ビートルズは音楽にそれを求めたが、その結末は幻覚に頼るものであり、飛躍はあっても体系が無い。例えば絵画等の芸術分野の根源に、一種のロマンチズム、ルネッサンスから脈々と流れる生きた芸術の神・アポロンからの文脈では、いまいち求めるものが違ってくる。現代芸術はしらんしな。
人間と自然を対立項でとらえる伝統的な方法論でもって、科学の分野にそれを求めるなら、一番手の届き易いのはSFか。なんかデジャビュ。しかしSFで語られる未来もまた、作品であるが故に、リアリズムが忍び寄る。
変な話、またベストセラー「国家の品格」を持ち出すが、これは数学者が書いた日本の伝統を称える本、なのかな?この本の違和感の原因は、内容とは別のトコロ「なぜ自然の代弁者である数学者が、伝統などという人間の代弁者に近づこうとするのか」という事。歴史以上に身体的なものは無い。歴史は示唆に富むであろうが、自然が教えてくれる事がより多いのは明白で、なぜなら原理性と獲得可能な認識との距離の桁が違う。思うに著者は、自然の代表者であるが故に、昨今の欲望(身体)の暴走を許せず、この分野に手を出したのではないか。
そういえば最近竹島だのを含めてナショナリズムが台頭しておる(この観点自体が謀り事だとは思わない)なー、国家は何種類あったっけ、忘れたけど国民国家と法治国家の2種類をもちだそうか。基本的には対立概念じゃないが、身体性を絡めるとその比重が重要になる。日本は基本的に前者との見方がされる事が多く(謀り事じゃないと思うよ)、後者の代表は天下のアメ公、司馬さんもエッセイでアメ公の国は正しく「ステイトメント」そのものだ、とおっしゃってましたし、鵜呑み。その理由は歴史が浅い。詰まり歴史という「身体」に縛られること無く、自然から作り上げられた国だから、だから科学技術がお盛んなんだぞ、という話。
一方でこの国は分裂し、根底には原始的な「生の資本主義」、欲望と淘汰が作り上げた極めて身体的な文化を溜め込んでいる。戦後これが輸入され、我々の体は再構築された。卑近な話だが、吉田松陰式のストイシズムは姿を消し、紊乱は酷いか、最近の風潮の源流を作る。つまりここ数年の新たなアメリカ化は再び我々に身体の再構築を要求しているのではないか。流れを読めば、不況期に抑え込まれた欲望(身体)が、この景況感の最中再び主役となり、その高まりが伝統的なもの、正当化された身体との結合を目差し、ナショナリズムの風潮を生むのではないか。ならば国家の品格とやらは、その目的に対し、大きな誤謬を侵してはいないか。
自分は別に左翼ではないが、カントの提唱したような理論国家を目指す分、大袈裟な言い方だが弁証法的に構築されてる分、理解しやすい。この分野の身体性でいい例が思いつかなったので、大江健三郎でも持ち出そうか。ヒロシマの代弁者との捉え方で。ヒロシマは自然と人間、どちらにも見放された事で「死」という結末を迎えた地域だ。この「死」、身体性を超克する為にはこの方法しかないのか、別に自殺願望じゃないよ、一つの結末です。ただ「死」というのもゼロであるが故に、物質世界には属さない、理性の残骸でしかない。確かに超克の方法ではあるが、どうなのか。なんか長い。やめる。ゲームの話書けんかった。
変な夢を見る。自宅が昔社会見学で訪れた古民家で、いかにも観光地らしくジャージの中学生がぞくぞくと家に侵入してくる。愛犬とじゃれてたら犬の上半身と下半身が分離し、体にフンがかかってしまう、あとは忘れた。
で、夢の世界は自由でいいなあと現実逃避し寝覚めのマイルドセブン吸ってたら、この現実の不自由さの犯人探しを考え始めた。当たり前の事だが、リアリズムは身体性に端を発する。手に届く範囲でしか、人は認識を獲得できない。現実逃避なので、何とかそれを超克出来ないか、方法を探るに、まず理想は高く、身体性の延長線上に無いものを模索する。
旅で比較法とか新たなトモダチで集合知への参画とか、面倒なのでナシ。ビートルズは音楽にそれを求めたが、その結末は幻覚に頼るものであり、飛躍はあっても体系が無い。例えば絵画等の芸術分野の根源に、一種のロマンチズム、ルネッサンスから脈々と流れる生きた芸術の神・アポロンからの文脈では、いまいち求めるものが違ってくる。現代芸術はしらんしな。
人間と自然を対立項でとらえる伝統的な方法論でもって、科学の分野にそれを求めるなら、一番手の届き易いのはSFか。なんかデジャビュ。しかしSFで語られる未来もまた、作品であるが故に、リアリズムが忍び寄る。
変な話、またベストセラー「国家の品格」を持ち出すが、これは数学者が書いた日本の伝統を称える本、なのかな?この本の違和感の原因は、内容とは別のトコロ「なぜ自然の代弁者である数学者が、伝統などという人間の代弁者に近づこうとするのか」という事。歴史以上に身体的なものは無い。歴史は示唆に富むであろうが、自然が教えてくれる事がより多いのは明白で、なぜなら原理性と獲得可能な認識との距離の桁が違う。思うに著者は、自然の代表者であるが故に、昨今の欲望(身体)の暴走を許せず、この分野に手を出したのではないか。
そういえば最近竹島だのを含めてナショナリズムが台頭しておる(この観点自体が謀り事だとは思わない)なー、国家は何種類あったっけ、忘れたけど国民国家と法治国家の2種類をもちだそうか。基本的には対立概念じゃないが、身体性を絡めるとその比重が重要になる。日本は基本的に前者との見方がされる事が多く(謀り事じゃないと思うよ)、後者の代表は天下のアメ公、司馬さんもエッセイでアメ公の国は正しく「ステイトメント」そのものだ、とおっしゃってましたし、鵜呑み。その理由は歴史が浅い。詰まり歴史という「身体」に縛られること無く、自然から作り上げられた国だから、だから科学技術がお盛んなんだぞ、という話。
一方でこの国は分裂し、根底には原始的な「生の資本主義」、欲望と淘汰が作り上げた極めて身体的な文化を溜め込んでいる。戦後これが輸入され、我々の体は再構築された。卑近な話だが、吉田松陰式のストイシズムは姿を消し、紊乱は酷いか、最近の風潮の源流を作る。つまりここ数年の新たなアメリカ化は再び我々に身体の再構築を要求しているのではないか。流れを読めば、不況期に抑え込まれた欲望(身体)が、この景況感の最中再び主役となり、その高まりが伝統的なもの、正当化された身体との結合を目差し、ナショナリズムの風潮を生むのではないか。ならば国家の品格とやらは、その目的に対し、大きな誤謬を侵してはいないか。
自分は別に左翼ではないが、カントの提唱したような理論国家を目指す分、大袈裟な言い方だが弁証法的に構築されてる分、理解しやすい。この分野の身体性でいい例が思いつかなったので、大江健三郎でも持ち出そうか。ヒロシマの代弁者との捉え方で。ヒロシマは自然と人間、どちらにも見放された事で「死」という結末を迎えた地域だ。この「死」、身体性を超克する為にはこの方法しかないのか、別に自殺願望じゃないよ、一つの結末です。ただ「死」というのもゼロであるが故に、物質世界には属さない、理性の残骸でしかない。確かに超克の方法ではあるが、どうなのか。なんか長い。やめる。ゲームの話書けんかった。