人類は、産業革命後、飛躍的な経済成長を遂げました。

産業革命前、地下深く足場の悪い炭鉱・鉱山における湧水のくみ出し作業は、人力や動物の力で行われていました。

産業革命後、50名の人と馬20頭が交代で24時間フル稼働して、2週間もかかっていた水汲み作業を、ニューコメンの蒸気機関はわずか2日で成し遂げるようになった、と言われています。

湧水で閉山していた炭鉱が数多くよみがえり、炭鉱産業が飛躍的に伸びた、と言われています。

 日本経済について考えてみたいと思います。流行った通信携帯端末を振りかってみると、ポケベル、PHS、携帯電話、高機能携帯電話そしてスマートフォンと、技術革新は目を見張るものがあります。

今まで出来なかったことが出来るようになるので、技術革新を活用すれば経済成長できると、私は考えています。

科学技術は、富でありまた資産だと、私は思います。資産である科学技術を活用すれば経済成長でき、技術革新が起これば経済はさらに成長を遂げることが可能だ、と私は思います。90年以降、日本経済は、停滞あるいは後退する時期がおおかったと、思います。



 日本は、技術革新を無駄にして経済成長の機会を逃している、と私は思います。


 2011年3月11日、その日、私は宮城県本吉郡南三陸町の老人ホームの建設現場で働いていました。14時46分、私は野外で作業していました。今回の大地震は、大きなゆれが異常に長く続きました。地震の震度は大きかったですが、建設現場付近で地震によって倒壊した建物はありませんでした。大きな地震だったので発電所が緊急停止したらしく、停電になりました。

 大地震のため、その日の作業は終了になりました。そうこうしているうちに6メートルの津波が来る!という情報が伝わってきました。志津川湾を見ると、いくつかの漁船が湾の外に避難しているのが見えてきました。


 津波はまず引き波から到達して、潮が引き海底が見えてきました。写真は15時11分に撮影したものです。



 15時20分頃、津波のおし波が到達してあっという間に潮が満ちてきました。津波がテトラポットにあたって砕ける音がしてきました。湾の奥の方を見ると、低地の家屋が津波に飲み込まれているようでした。



 私は、道路に下りて携帯のカメラで撮影していたのですが、どうやらこちらにも津波が押し寄せて来そうです。



 私は、急いで老人ホームの外階段を上がって津波から逃げました。



 老人ホーム正面にある保育園は、津波で内部がめちゃくちゃになりました。写真は、津波で冠水時のです。



 湾内の漁船は、横転沈没したようです。



 志津川湾を見ていると、潮が引いて海底がまた見えてきました。津波の第2波来るとのことでした。写真は、15時53分に撮影したものです。





 その後、何回も津波は来たようですが、道路まで上がってくるような大きな津波は来ませんでした。

 道路が津波で寸断されてしまったので、私は老人ホームで一泊し、翌日、脱出路が確保出来たので帰路につきました。写真は、翌日の志津川湾です。





 話は変わりますが、携帯電話はどうだったか?

 au、SoftBankは、圏外の表示がでて通信不能でした。NTTドコモの携帯電話の中継所は非常発電装置を備え付けてあるようなので、NTTドコモは、地震後も高台にのぼると電波がとどいていたようです。夜になると、その電波も途切れてしまいました。翌朝、NTTドコモは電波がとどくようになって、通話は出来なかったようですがeメールは出来るようでした。







 地元の仙台港は、どうなったか? 


 AKB48の握手会、「ポニーテールとシュシュ」との時の仙台会場、夢メッセはどうなったか?会場入り口は上の写真のように、ドアが開いていました。



1階部分のガラスは、津波の漂流物によって破られたようです。



 AKB48の握手会、「ヘビーローテーション」の時の会場入り口付近は、自動車と自販機と海底の砂で荒らされていました。





夢メッセの正面は、津波でタイルが剥がれたり地震で出来たくぼみで歩きづらい状態でした。



ポニーテールとシュシュの時、仙台会場はすごく暑かったです。暑い中、握手会に来た人たちは整理券を求めて駐車場で並んだのですが、その駐車場は、写真のような状態でした。



「桜の栞」の時の握手会仙台会場“アクセル”の方も、夢メッセ同様、車が内部に入り込んでいました。



港湾の方に行ってみると、貨物船が陸揚げしていました。



震災後、仙台港の石油コンビナートから出火し、遠くからも煙が見えました。13日の夜、その様子を撮影してみました。



13日の夜、撮影に行く途中、道路で液体窒素を積んだタンクローリー車が5、6台?駐車していました。その液体窒素を使って消火したらしく、3月14日の昼、火の勢いはかなり小さくなっていました。



仙台港の他の施設は、



上の施設は、被害が大きいです。夜、石油コンビナートからの出火を撮影するために上の写真の施設を通ったのですが、激しく損傷を負ったフォークリフトらしき物がアラームを鳴らしているし、海底の泥が津波で打ち上げられ足場が悪くなっている場所があったりと恐かったです。



上の倉庫は、外から見た感じでは地震による被害はほとんどなく、津波によって1階部分が壊滅的被害を負っています。近くの道路にはこの倉庫から流失したと思われるカップラーメンが散乱していました。



仙台港近くの被害が大きかった地区は上の写真のような感じで、泥で汚れた道路、壊れた自動車、ゴミの散乱が酷いです。津波の被害にあった民家は、家の整理を始めているのですが、廃棄物の置き場所が確保できないため、塩水に浸かったたたみ、本、ファックスなどを歩道に排出しているので、さらに街並みが悪くなっています。

 今年の5月以降どうなったのか? 


私は、8月2日から11月6日まで派遣社員として工場で働いていました。先月末から今月始めは、大変慌しかったです。10月30日、私は山形の寮にあった私物のいくつかを持って実家に帰り、31日は日勤、11月1日は栃木に転勤でした。


栃木の工場では夜勤で働いたのですが、すっかり体内時計が日勤のリズムなっていて、夜勤の時間中ずーと眠かったです。勤務内容は、主に携帯電話が50個入ったボックスを運ぶ作業でした。


難しくはなかったのですが、カメラ付き携帯電話を落として全部だめにしてしまったら?百万円くらい損害を出しそうな感じでした。そういうのを眠たそうな顔をして勤務していたら、私はあっけなくクビになってしまいました。


そこの工場は、基本的に5勤2休なのですが、今月は6勤1休、そして、第1週は土日も休日出勤してほしいと頼まれてしまいました。クビにならなかったら、10連続勤務ということになっていました。


そこの請負会社は、今月末までに100人派遣社員を増員する予定で、私が入社した時は40人目くらいだったそうです。非常にバタバタした現場で派遣のリーダーとか、請負会社の社員は大変そうでした。


 勤務初日、配属先が決まった時、私は「ここは、やばい。」と、思いました。携帯電話の“組み立て”という契約だったのですが、私の配属先は、仕上げでした。取り扱っている製品は、検査工程が終わった完成品でした。


携帯1個落としただけで、ウン万円の損害。不良を見落としたら、お客様に不良品を供給することになる一番厳しいところでした。


そういうところで、夜20時30分勤務開始、朝7時45分勤務終了、10連続勤務の後、6勤1休。クビにならなくても、これでは体が持たないな、と私は思いました。



 結局、派遣会社を退職しました。