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先月7月、私は骨折してしまいました。勤務中の労働災害です。重機のオペさんが作業中に重機の窓を閉めようとしたら、誤ってレバーにふれ左旋回してしまいました。その結果、私は、右足中側骨?側頭骨?の2か所を骨折、右足の足首から甲が腫れ、一部皮がずるりと剥がれてしまいました。直接重機と接触したわけではないのですが、私はそこそこの怪我を負ってしまいました。
2009年の6月まで、私は食品加工工場で働いていました。私は、その工場で週契約の登録アルバイトとして長年勤務していました。
その年の4月法律改正にしたがって、その工場でも1ヶ月間バイトを入れていないと退職ということになり、再びアルバイトをしたい場合は再面接ということになりました。
再面接といっても形式的なもので問題ないだろう、と私は思っていました。それで、私は、2ヶ月くらい工場を休みました。お金があったからです。
8月上旬そろそろ働きたいな、と私は思ったので、私は工場に電話しました。面接日は、8月30日あたりだったと記憶しています。
面接の結果は、不採用でした。人事課の係長が承認しなかったのが不採用理由です。面接官をした人事課の社員は、私に同情してそれなら菓子パン課のパートとして働けるようにしてあげようと、行動を始めました。
菓子パン課に問い合わせると、私をパートとしてではなく準社員としてなら、面接に応じてもいいという返事が返ってきました。
準社員として働く場合、健康診断を受けないといけないのですが、私が健康診断を受けてみたら、健康診断を受けた医療機関からは業務には支障がないという診断だったのですが、血糖値が少し高めだ、という診断結果が返ってきました。
その健康診断書を、工場の産業医にみてもらったら血糖値の高さを理由に不採用ということになりました。
私は、この工場で働くことをあきらめました。
私は、その時、年齢は39でしかも車の免許は持っていませんでした。蓄えもなくなり次の職も見つかりそうになかったので、私は実家に帰ることにしました。私は、帰ってまず合宿で車の免許を取ることにしました。
私は、合宿で免許は取ることは取れたのですが、卒業検定では交差点内でエンストしてしまって、私は車の運転が上手くなれませんでした。私は、車の運転に苦手意識を持つだけ、自信を失うだけでした。
私は、アルバイト・パートのような非正規雇用ではもう働きたくなかったですが、職安の求人では、即戦力となるような経験者か、将来会社を引っ張っていくような若い人が求められているように感じられ、私のような人が職を見つけるには著しい困難がありました。
それで、私は派遣社員とかでもいいかなと思ったので、ワーキンに契約社員の求人が掲載されていたので、私はそこに応募してみることにしました。
私は、トヨタ車体の求人紹介に応募したのですが、その派遣会社では山形のデジカメ工場で働かないか?と、勧められました。このとき、私は父との関係も最悪の状態になっていたので、この提案を受けることにしました。
2010年8月2日から10月31日までの3ヶ月間、私は山形のデジカメ工場で働きました。派遣切りを通告されたので10月上旬でした。
派遣会社の社員は、私に今月をもって解雇になったこと、忙しくて連絡が遅れたこと、次の派遣先を紹介することを告げました。
この後、この工場を去るまでの約1ヶ月、私はつらかったです。どうして自分が真っ先に派遣切りの対象になったのだろう? 俺って必要ないの? と私は悩みへこみました。
11月から、わたしは栃木県の携帯電話の組立工場で働くことになりました。その工場で私が配属されたところは、検査でした。
この検査が終わると、あとはお客様に引き渡されるという大事なところでした。この検査で不良品を見落とすと、お客様のクレームに直結するそういう場所でした。
その工場では、私は2日でクビになりました。私は、実家に帰りました。私は、勤務中すごく眠たかったです。
この工場では、私は自給のいい夜勤だったのですが、やはりこの年で夜勤はつらいです。私は、日勤を希望するばよかったかな?と思いました。
2011年3月11日までの1ヶ月間、私は建設現場で働いていました。4月上旬まで働ける予定だったのですが、震災のため解雇という感じになってしまいました。
震災後、職安に行くと、失業保険を受け取るために長い列が出来ていました。震災前から、私が住んでいる仙台市は雇用情勢が悪かったので、また私はしばらく無職でぶらぶらするのかな? と私は思いました。
震災後、私は仙台市中心部の方に買い物に行っていたのですが、その道中Hという建設関連の会社がありました。その会社は作業員を募集していました。
震災から1ヵ月後、私はこのH社で働き始めました。私が入った現場は、新築工場の震災復旧、農道の地盤改良、仮設焼却炉新設、民家の解体、製油所のトランジットの清掃、などのことをしていました。
震災前は、本当に働けなくて苦しかったです。震災後は、工事関係の仕事が異常に増えたので、知識も経験も資格もない私でも仕事が途切れませんでした。
震災後、貯めたお金で8万円(車検、税金などをいれると約19万円)のマニュアル車を、私は買いました。震災前の私の欠点のひとつは、ペーパードライバーで運転が下手だったことですが、オートマ車なら乗りなれない車でも私は運転できるような感じになりました。
もし震災がなかったら、自分はどうなっていたのだろう? と私は時々考えるのですが、
震災がなかったら、父は無職の私にはらを立て激しい親子喧嘩のすえ、私は実家を飛び出していたのではないか?、
私は収入のあてもないのに実家を飛び出してホームレスになったのではないか?、と私は思います。
その年の4月法律改正にしたがって、その工場でも1ヶ月間バイトを入れていないと退職ということになり、再びアルバイトをしたい場合は再面接ということになりました。
再面接といっても形式的なもので問題ないだろう、と私は思っていました。それで、私は、2ヶ月くらい工場を休みました。お金があったからです。
8月上旬そろそろ働きたいな、と私は思ったので、私は工場に電話しました。面接日は、8月30日あたりだったと記憶しています。
面接の結果は、不採用でした。人事課の係長が承認しなかったのが不採用理由です。面接官をした人事課の社員は、私に同情してそれなら菓子パン課のパートとして働けるようにしてあげようと、行動を始めました。
菓子パン課に問い合わせると、私をパートとしてではなく準社員としてなら、面接に応じてもいいという返事が返ってきました。
準社員として働く場合、健康診断を受けないといけないのですが、私が健康診断を受けてみたら、健康診断を受けた医療機関からは業務には支障がないという診断だったのですが、血糖値が少し高めだ、という診断結果が返ってきました。
その健康診断書を、工場の産業医にみてもらったら血糖値の高さを理由に不採用ということになりました。
私は、この工場で働くことをあきらめました。
私は、その時、年齢は39でしかも車の免許は持っていませんでした。蓄えもなくなり次の職も見つかりそうになかったので、私は実家に帰ることにしました。私は、帰ってまず合宿で車の免許を取ることにしました。
私は、合宿で免許は取ることは取れたのですが、卒業検定では交差点内でエンストしてしまって、私は車の運転が上手くなれませんでした。私は、車の運転に苦手意識を持つだけ、自信を失うだけでした。
私は、アルバイト・パートのような非正規雇用ではもう働きたくなかったですが、職安の求人では、即戦力となるような経験者か、将来会社を引っ張っていくような若い人が求められているように感じられ、私のような人が職を見つけるには著しい困難がありました。
それで、私は派遣社員とかでもいいかなと思ったので、ワーキンに契約社員の求人が掲載されていたので、私はそこに応募してみることにしました。
私は、トヨタ車体の求人紹介に応募したのですが、その派遣会社では山形のデジカメ工場で働かないか?と、勧められました。このとき、私は父との関係も最悪の状態になっていたので、この提案を受けることにしました。
2010年8月2日から10月31日までの3ヶ月間、私は山形のデジカメ工場で働きました。派遣切りを通告されたので10月上旬でした。
派遣会社の社員は、私に今月をもって解雇になったこと、忙しくて連絡が遅れたこと、次の派遣先を紹介することを告げました。
この後、この工場を去るまでの約1ヶ月、私はつらかったです。どうして自分が真っ先に派遣切りの対象になったのだろう? 俺って必要ないの? と私は悩みへこみました。
11月から、わたしは栃木県の携帯電話の組立工場で働くことになりました。その工場で私が配属されたところは、検査でした。
この検査が終わると、あとはお客様に引き渡されるという大事なところでした。この検査で不良品を見落とすと、お客様のクレームに直結するそういう場所でした。
その工場では、私は2日でクビになりました。私は、実家に帰りました。私は、勤務中すごく眠たかったです。
この工場では、私は自給のいい夜勤だったのですが、やはりこの年で夜勤はつらいです。私は、日勤を希望するばよかったかな?と思いました。
2011年3月11日までの1ヶ月間、私は建設現場で働いていました。4月上旬まで働ける予定だったのですが、震災のため解雇という感じになってしまいました。
震災後、職安に行くと、失業保険を受け取るために長い列が出来ていました。震災前から、私が住んでいる仙台市は雇用情勢が悪かったので、また私はしばらく無職でぶらぶらするのかな? と私は思いました。
震災後、私は仙台市中心部の方に買い物に行っていたのですが、その道中Hという建設関連の会社がありました。その会社は作業員を募集していました。
震災から1ヵ月後、私はこのH社で働き始めました。私が入った現場は、新築工場の震災復旧、農道の地盤改良、仮設焼却炉新設、民家の解体、製油所のトランジットの清掃、などのことをしていました。
震災前は、本当に働けなくて苦しかったです。震災後は、工事関係の仕事が異常に増えたので、知識も経験も資格もない私でも仕事が途切れませんでした。
震災後、貯めたお金で8万円(車検、税金などをいれると約19万円)のマニュアル車を、私は買いました。震災前の私の欠点のひとつは、ペーパードライバーで運転が下手だったことですが、オートマ車なら乗りなれない車でも私は運転できるような感じになりました。
もし震災がなかったら、自分はどうなっていたのだろう? と私は時々考えるのですが、
震災がなかったら、父は無職の私にはらを立て激しい親子喧嘩のすえ、私は実家を飛び出していたのではないか?、
私は収入のあてもないのに実家を飛び出してホームレスになったのではないか?、と私は思います。
