すなと風だけがどこまでも続く砂漠の風景は、人の心をからっぽにします。
そんな砂漠に奇跡のようにポプラのこだちがポツリポツリ。やがてポプラは数をふやして、すがすがしい並木となります。
並木がみちびく先には水があって、水のあるところには人がくらしているのです。
このような砂漠のオアシスの一つに亀茲
(キジ)という国がありました。
亀茲国に、美しい顔立ちの男の子が生まれました。
かれのお父さんはインドから仏教をひろめるためにやってきた人で、かれのお母さんはその国の王さまの妹でした。
ラジュウと名づけられた男の子は、たいそう頭がよく、やさしい心を持っていました。
「ぼくはお父さんのこころざしをついで、仏教をひろめる人になりたい。そのために勉強したい」と思うようになりました。
ラジュウが9歳の時です。お母さんとふたりで、砂漠をこえ、山をこえ、インドへ、仏教の勉強をしに行きました。
インドで学んだラジュウは、さらなる教えをもとめて、修行をしました。
そして莎車(サシャ)の地で、たくさんの人をすくえる教えと生涯のししょうに出会いました。
「この教えは中国にえんがある。おまえはインドの言葉で書かれたこの教えを中国の言葉にやくして、たくさんの人に読ませなさい」
ラジュウはししょうとの誓いをはたすと
決意しました。
亀茲国にもどったラジュウが、仏教についてだれよりも深く研究していることは、中国のすみずみまで知れわたっていました。
ラジュウを自分の国のものにしたいと考えた秦(シン)の王さまが、しょうぐんに命令しました。
「7万人の兵隊とともに、亀茲国をせめて、ラジュウをつれてこい!」
ラジュウはとらえられ、長安(チョウアン)につれていかれることになりました。
砂漠をわたるラジュウは、すなと風に身をうたれ、昼の暑さに苦しみ、夜の寒さにふるえました。
しかしラジュウは、雲一つなくはてしない青空をながめては、
「仏教の教えの広大さのようだ」
と思い、まんてんの星がかぞえきれないのを見ては、
「この星の数よりたくさんの人をすくいたい」
と、考えるのでした。
半年後、長安にむかっていた一行に知らせが入りました。
しょうぐんがいない間に、秦の国がほろびたのです。
帰る国がなくなったので、しょうぐんは自分の国をつくりました。
しょうぐんとともに、涼州という地にとどまることになったラジュウは、ひたすら勉強にうちこみました。
また、すでにやくされていた仏教の教えが、まちがえだらけで分かりにくいのにがっかりし、「正しい教えを中国に伝えられるのはあなただけなのですよ」
というお母さんの言葉を思い出していました。
涼州での17年がすぎました。
かつて秦をほろぼした後秦(コウシン)という国もやはり、ラジュウがほしくて、秦と同じように7万人の兵で涼州をせめて、ラジュウをつれ出しました。後秦のわかい王さまは、前からラジュウを尊敬していましたので、黄河をこえて長安に入ったかれを、歓迎しました。
長安では人びとがラジュウをししょうとしてもとめていました。
ラジュウは、弟子たちをしどうし、たくさんの経を中国語にやくしました。そのやくはきわめて正確で、今なお、たくさんの人びとが仏教を学ぶためにもちいています。
頭がよいために、争いにまきこまれた人生でしたが、ラジュウは仏教をひろめるという父のこころざし、中国に伝えなさいと言う母の言葉、そして、ししょうとの誓いをはたすために、すべての困難をのりこえたのでした。
おわり
【鳩摩羅什】
鳩摩羅什は「法華経」を、インドのサンスクリットから中国語に訳したことで有名な人です。
日蓮大聖人は御書で、「羅什一人だけが、釈尊の経文に自分の言葉を入れなかった人」(1007㌻)と言って、羅什の法華経訳の素晴らしさをたたえています。
羅什は少年時代の師匠との誓いを忘れず、困難を成長のバネとして、たくさんの勉強をしたからこそ、1600年たった今も認められる素晴らしい訳を残すことができたのです




