毎日いろいろなことが凄まじい勢いで取り巻いて
通り過ぎて、毎日それでも、愉快にそれなりに生きられていることに感謝します。


失うことに目を向けると悲しくて切なくてやるせないことばかりです。

わたしも何度かありました。そんなことが。言っていないこと、言ってはいけないこと、たくさんありますね。


誰かから
話して!って
何かあったら言ってよ!って言われても

言えないことだから言わないし、言えないし、言いたくない。
そんなことを繰り返しながらも、わたしは自らを鼓舞し、時にはエグれた傷を知らないフリしながら生きています。
毎日そうして踏ん張って生きています。

若い時から1人で生活しているからか
誰かに打ち明けたくてもなかなかできなくて、打ち明け方すらわからない…それが悩みです。

みんなも、そうですか?



生きるということは、もしかすると死に対する比重が大きいかもしれません。
天秤にかけると圧倒的に死に向かう方向に傾いています。


その中でも大切な人から必要とされたり、愛を受け取ったり、明日を生きる希望を感じたり
そんな少しずつの栄養で、生きるという魂に食事を与え続けながら、生という不可解なものに価値を見出している感覚です。

死に向かうからこそ生きることへの尊さを感じて、なんてことない出来事が輝いてみえたり、突然心が錆びついてしまったり、、、

恐怖や失うことの怖さ、それを知っている人間だからこそ、その上に芸術が成り立っていて、皮肉にもわたしはその世界で自己表現しています。


この仕事をしていると
身を削るような思いをすることで自分も知らない表現が出てくることがよくあります。
それが辛いと感じる時もあれば、翼を与えられたように何でも出来るような気分になるときもあります。

円形脱毛になってはじめて身を削りすぎたことに気付いたり。笑(生えてきてるけどまだ禿げてる)


わたしはこの仕事をしていくうえでは、それでいいかなと思っていました。身を削ってなんぼだと。


だけど、
もう、ふつうに穏やかに暮らしたいな、干渉されたくないな、見られたくないな、と感じている自分もいたりします。

時には自分はどこにもいないんじゃないかと、踏ん張っても踏ん張っても風船のようにふわふわと飛んでいってしまう気がすることもあります。

でも、そんな不安定な環境からいまさら抜け出す自信もないし、勇気もない。

その度に、ちっぽけだなぁと感じます。




何かを発言する時に
また何か言われたらどうしよう…と考えることが増えました。

私にも責任があるのかも。とも思います。
だって発言したら賛否両論あるわけだから。
触られたくないなら黙っとけよ。そう言う人もいるかも。

だけどわたしも生身の人間だから、
表現者としてこの世界にいる以上、
嘘は付きたくないです。だから素直に書いてる。今日みたいに。
自分に形がないと感じる瞬間がある時こそ、こうして言葉で“私がいること”を記しておきたくなります。


いつから何かを発言するときに、怯えなくちゃいけなくなったんだろう


SNSで距離が近くなりすぎてるいま。


あなたの見えている彼、彼女はホンモノですか?

あなたの描いている“そうであるべき”、“そうであってほしい”を押し付けるのは違います。

わたしたちは空想で作られたプラモデルではありません。


分かったように言われたくないから

わたしは触れさせないし、誰かの大切な部分は決して触らない。踏み込まない。



今一度、考えるタイミングだと、思います。


いまでもここにいてくれてる人たちはみんな優しいけどね…ゴメンネ


冷え切ったネットの世界に生きないでください。


わたしも、もう少し、心を温め直そうと思いました。

生きていることを悲観せず、いつも支えてくれている身近なひとを大切にしよう。そう思いました。

遠くに目を向けすぎず、知らない人の言葉は相手にしない。


みなさんがいつも温かいコメントをくださるので、わたしはその度に穏やかな気持ちを取り戻せます。
本当にありがとう。


こんなちっぽけな独り言ですが

だれかの心の隅っこに届けば嬉しいです。