母と惑星について、
および自転する
女たちの記録

舞台を観劇しにいってきました。
{B8AB4BC6-2EB3-4766-BC09-0F11CCF03025}


大好きな蓬莱竜太さんの脚本作品。
そして素晴らしい女優さんたち。

女という性をまざまざとみせつけられた舞台でした。
楽観的に逃避する術を学んでしまった人間たちが当たり前のようにそこにいて、それを〝大人になること〟と捉えられてしまうことが、何かを諦めてるような気がして悲しくなった。

人間の8割は幼少期につくられると思ってるんだけど、この作品をみてやっぱりそうだなぁって。
母親の存在って、物凄いんです。
だけど母親だって母親になった瞬間に母親になれるかってそんなの無理で
人間はいつまでも、死ぬまでも青春の延長であって、こどもが望んでいるよりも大人と呼ばれる人達ではないんだと。

母親の一言、目線、ため息、笑い声、ひとつひとつが嫌でも焼き付いていて
大人になってからも支配するんですよね


3姉妹が話していることはほぼずーっと普通の話し。
お腹がすいたとか、高い買い物をしてしまったとか、あいつに騙されたこいつに騙された、あの人と結婚した、専業主婦がいい、あれがやだこれがやだあれがいいこれじゃなきゃやだ
こどもと大人を行き来しているその女性たちをみていると
人は生まれながらにそんなちょっとのことじゃヘコタレナイように作られてて、だけどその備え付けられた強さのせいで自分でも気がつかないくらいたくさん傷を抱えて生きていかなきゃいけないんだよなぁって。
ふとした瞬間に冷静にその事に気づくと震える程恐ろしくなったり。
壊れた方が当の本人は楽だったりするんだけど。

この舞台では
自分が傷ついてることに気がつかないように努めていた少女が糸が切れたようにそれに気づいてしまう瞬間があって。
あまりに痛々しくてみてられなかった。

なんで言わなかったの!って言われても
仕方ないじゃん
言えないし伝え方が分からないんだもんね


彼女が今後どんな人生を歩むのか、気になる。


辛いことがエネルギーになって、幸せができてるなら、それも全て“経験”と呼べるけど
そう置き換えながら消化していくしかないのが人間。
だからお互いを補うように愛が生まれて人を愛せるんだなぁ。
不完全で充分なんだ、きっと。


久々のブログ

すっごく個人的な言葉をつらつらと並べてしまいました

あぁワインのみたーい
美味しいお魚食べたーい

お肉とハイボールはちょいと飽きて休憩。

過ぎたるは及ばざるが如しいいますが

及んでいたことに気がつかないくらい短期間で多量に摂取しすぎた模様wwちーん

舞台中にお肉たべたいと言いすぎて
終わった瞬間各方面から『肉いくよ』って

だけど、なに食べたい?って聞かれたらさいきんは『和食』の一点張り

人の好みはこんな短期間でものとも変わってしまうものなのか
悲しや悲しや


おっさかなおっさかなおねがいるんるんるん



にゃもし(*´ω`*)
{7F480560-C597-41E6-890D-1D52D7F335CB}



゜+。Chiro。+゜