あのとき | 鬱病を乗り越える -毒親からの解放-

鬱病を乗り越える -毒親からの解放-

鬱病が快方に向かい、前向きに生きるために気付いたことなどを書いています。
鬱病、薬のこと、毒親、生い立ち、不登校など。
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2011年3月11日、私は関東に住んでいました。

その時の私は本当に沢山の薬を飲んでいたので、一日のほとんどを寝て過ごしていました。

地震があった時はたまたま起きていましたが、昼食後の薬を飲んだ眠気に襲われて、地震の震度を確認した後(関東は震度5強でした)、眠りに落ちました。

夕方目を覚ましてテレビをつけると、私の生まれ故郷が変わり果てた姿になっていて、愕然としたのですが、あまりのショックに現実感がわきませんでした。

祖父母、親類、皆沿岸部に住んでいたので、安否がひたすらに気になりました。
テレビでは夏休み泳いだ海が津波に変わり、夕方涼んだ松林が、走り回った小さな部落が全部津波に飲まれていました。

くらくらした頭で外に出てみると、特に被害の無い地域だったにも関わらず、コンビニやスーパーの棚が空になっていて、ただならぬ予感にただ茫然とするだけでした。

夫は帰宅難民になり、帰宅は翌朝でした。


テレビを見ても、東北沿岸部の悲惨な状況にうろたえるしかなかった。


毎日、皆の無事を祈るしかなかった。



数日後、夫の携帯に母から連絡があり、家は流されたが、祖父母やおじおば、いとこは無事だったが、少なくはない数の親戚や知り合いが津波に流され亡くなったと伝えられました。


その後、福島の原発の爆発が起き、混乱は本格的に関東にもやってきました。


水を買い求めたり、ガソリンを買うために何時間も並んだり、ティッシュ、トイレットペーパーを探し求めたり、輪番停電なんてものもありました。


でも、こんなこと苦労には入りません。


被災地の人々は、家が流され、電気もガスも無い絶望的な状態で必死で耐えているだろうと思ったからです。

雪が降る中、辛いなか、悲しいなか、強く強く耐えているだろうと思ったからです。


私は遠く離れた自分の故郷の人と共にありたいと思いましたが、私には帰る家がありません。

故郷を捨てた私には、帰る場所も会える人もいないのです。


そんな私はただの役立たずです。


沢山の薬を飲んでいたので、震災当時の記憶があいまいで、今思い出せるのはこれくらいです。

私は何の辛い思いもせず、無傷で生きてしまった。

毎年この時期になると、そんな後悔の念でいっぱいになります。


鬱の薬で寝てばかりで、社会に貢献もしないで、故郷に何の働きもしていない自分が役立たずで申し訳ない気持ちでいっぱいになります。



でも、薬が減って、本を読むようになって、少しずつ頭がクリアになることが増えた今、

生きていれば、生きてさえいれば、自分にも何か出来ることがあるんじゃないかと思えるようになりました。


まだ身体の調子には波があります。
まだ、働きだすには早いですが…


いつか元気になって働けるようになったら、何か道が拓けるのかも知れないと思えるようになりました。


このブログを始めて何回めかの3.11で、震災について自分は何も語る資格は無いと、ずっと口をつぐんできましたが、7年目の今日、少し考え方が変わったので、ここに記します。