こうある「べき」の話 | 「開」ブログ

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最近は離婚の話やそこから感じたことが専ら。
趣味の編み物や日々の事など含めて発信する場の一つとしてこの場所を作りました。

こんばんはm(*_ _)m







鳥居ミコさんのメルマガに登録してるんですが、こうある「べき」というのは、真逆の前提を握りしめているからだ、という内容の記事を読みました。

(メルマガにはもっと具体的な内容が色々書かれてます)







「まんま、これまでの私そのもの」






自分の場合は特に「ちゃんと」って言葉をよく言ってしまうんだけと。





「ちゃんと」に囚われてること自体は、コーチングなども通して知ってて。


ただ今回のメルマガを読んで感じたのが、癖と言うよりも私のコレは自分の中の「掟」のような感じで。





額縁に入った筆文字の「ちゃんと」って言葉が、脳みその一角に釘で頑丈に打ち付けてあるような感覚?というのかな。


メルマガを読んで気づいた時に、そう感じた。


多分ずっとあったそれに、初めて目がいったような。


ずっとそこにあったけど、私の視線より高いところに打ち付けてあるから目には入ってなくて。


ただしっかり刻まれてるから、そこにあるって認識がなくてもめちゃくちゃ意識はしてると言うのか。






こういうのは、親の影響云々てのがよく聞く話だと思うんですけど。



私の場合幼少期に強く影響を受けたのが祖父で。




詳しくは割愛しますが。

数年前、父親の法要で最後に会った時も「とにかく、ちゃんとしなきゃならん」って言ってたなぁって思い出して。




今なら分かるけど。


あの人自身が学歴ないとか、貧乏だったとか、そーゆーコンプレックスの塊だから「ちゃんと」って言葉に囚われてんだろなぁ。



それなりのお金持ちにはなって、家も建てて、売っちゃったけど別荘だって買ったり。

寺の総代(一番金払ってる)にもなって、アパートも2棟建てて、未だ孫(従兄弟だけだけど)にお金渡してもお金に余裕があるくらいなのに。




もう十分頑張ったでしょうに、90になっても未だに自分を認められないんだなぁ。




大変だよねぇ...(他人事)




⬆️こういうの考えてたら、なんかだんだん、全部の不安感が薄まってきてるというのか。



私は今まで何を心配して、どうして「ちゃんと」したかったのかもら忘れちゃったというか。




上手く言えないけど、ずっと私を見張ってた亡霊は幻想だったと。

ほんとに見張られてるわけじゃなかったと。



そんなふうに感じてきました。






まだ時間がかかるかもしれないけど、またなにか動くかも?動かなくてもまぁそれはそれで。




私の中の選択肢が増えて来る感覚だけは、ある。