オーディションが終わる前の2005年12月に僕は東京に出向いていた。

とある表彰式に参加する為である。それはレオパレス21が行っていた夢コンテストなるものである。

実はその前に募集記事を読んで自分の想いを綴って応募しており、それが一番上の賞ではないにしろ賞を頂いたのです。

その内容が100万円分の引越し費用でした。これを使ってサーキットの近くに住もうと考えました。

悩んだ末に、気持ちを新たに関東へ行く事にしました。

無事に移り住み仕事も決まりレース活動を再開する下地は整いました。

しかし自分の弱さが露になり、環く境の変化に耐え切れずレース活動をする前に沖縄に逃げ帰ってしまいました。

これは今でも物淒く悔んでいる事の一つです。。

オーディション期間最後の練習走行日。

それは2006年1月上旬の寒い日でした。気温2度くらいでしたでしょうか。沖縄住みの僕からすると考えられない寒さでした。

そんな中、念願の鈴鹿国際サーキットでの走行。自分の中での気持ちは最高でした。

F1が走るコースを走れるなんて夢の様でした。

ですが、そんな気持ちとは裏腹にへたくそな僕はミスの連続で、1コーナーでコースアウトして動けなくなったりまともに走れず、
更にはスプーンと呼ばれるコーナーでハイスピードからのブレーキでミスをしたばかりに速い速度でスピンそしてコースアウトをしました。

その瞬間のことは今でもよく覚えています。

「止まらない、このままじゃ壁にぶつかる!怖い!」ではなく「このままじゃ車を壊してしまう、弁償するお金なんてない・・!」という悲痛の叫びが頭を過りました。

幸い、壁の手前でどうにか止まりましたがあの瞬間本当にその様な事を考えていたのです。

そして予定の走行が終わった後に、そのまま電車に乗って帰らねばならない予定だったのですが、
舘さんが「もう一本練習枠あるから乗ってけよ」と言ったのです。

僕は帰りのことが気がかりで帰るつもりでいたのですが、なんと僕の為にフェリーを予約していてくれたのです。

こんな下手で迷惑ばかりかけている僕にここまでして頂ける事に感謝しきりでした。勿論今でも感謝していますし忘れることはないでしょう。

半年間という短い期間でしたがこれが僕の最初のレース活動でした。

寒いだけあって帰る頃には雪が降ってきてこれで終わるのかと切ない気持ちを覚えました。

2005年9月
22歳を迎えたすぐ後でした。

結局鈴鹿近辺に移り住まず沖縄から通うことにしたのですが、アルバイト代は全て渡航費や練習費用に費やしていました。


そこまでして挑んだ初めての練習走行。
初めてのサーキット、初めてのフォーミュラカー。すべてが初めてでドキドキしていました。

間近で聞くレーシングマシンのエキゾースト。本当に感動でした。

マシンの乗り込みシート合わせをして練習走行開始。

鈴鹿サーキットの南コースという小さなコースでの練習でした。

ですが、マシンの視界も低く、サーキットも障害物などないので道がわかりません。すごくゆっくり走っていたと思います。

するとピットに呼び戻されました。あまりに遅く走っていたので何かトラブルがあったのかと思われていました。それくらい遅すぎて心配されました。

速さを見せる気持ちで臨んだ初走行、見事に砕け散りました。

その後も鈴鹿に通い練習を重ねますが周りとの差は埋まらず時間とお金だけが減っていきます。

それもそのはず同じオーディションを戦っているライバルたちは自分の車でサーキットを走ったりしている人も多かったのです。

まさに場違いでした。本当に悔しくてサーキットのトイレで泣いていました。

舘さんに車の曲げ方等教えてもらったりしていたにも拘らず何も出来ていない自分が不甲斐なかったです。

そして月日は過ぎ、半年間のオーディションも終盤に。

選ばれることが無いことは火を見るより明らかでした。

それでもせめて最後にと、鈴鹿国際レーシングコース、所謂F1日本GPで使用されているコースを走りたくお願いした所許可を貰えたので最後の練習走行で本コースを走ることが出来ました。