ストロングスタイルの象徴 1 | 団塊Jrのプロレスファン列伝

ストロングスタイルの象徴 1

どうも!!流星仮面二世です!!

 

さて、ストロングスタイルと人が言います。それはボクが幼き頃からあった言葉ですが、時代の流れからか?一時はあまり聞かれなくなりました。しかし近年、また取り上げられることが多くなり、耳にする機会も多くなりました。

 

そんなストロングスタイルですが・・・それは実のところ、なんなのでしょうか?

 

それはプロレスにおいての「強さ」そのものであったり、あるいは「感情」であったり「意識」であったり。アントニオ猪木自身がそれであり、その新日猪木流を継ぐものこそストロングスタイルのプロレスラーだ!というものもあれば、姿や形ではなく現在にまで脈々と受け継がれている新日本プロレスにおいての「戦い」こそがストロングスタイルなんだ!という意見もあったり。その解釈は十人十色、各人各様のようです。

 

確かに「スタイル」という言葉が広い意味を指すことから、それを一言で語れと言われたなら・・・どんなにベテランのプロレス関係者やプロレスファンでも言い表すのは難しいのではないかなと思います。

 

でも「ストロングスタイルを象徴するもの」と問われたなら・・・どうでしょうか?

 

どんな大きな河川であっても、その源流は山の湧水。小さな小さな流れから始まりますが、そう、それはまさしく川の流れのごとく・・・あれは2021年09月。ボクの幼馴染みのご子息のM.TマシーンズがZoomにて出題した

 

「ヒロ・マツダが初めてジャーマン・スープレックス使ったときの相手は!?」

 

というプロレスクイズから始まりました。

 

コロナ禍をブッ飛ばせ~Zoomプロレスで、いこう!!~

 

ジャーマン・スープレックス・ホールド。それはボクがプロレスで一番好きな技です。

 

そんなこともあり、日本人で初めてジャーマン・スープレックス・ホールドを使ったのがヒロ・マツダなのはもちろん知っていましたが、相手が誰だったか?とは・・・これは盲点。完全に意表を突かれました。

 

その正解はサム・スティムボート。そう、リッキー・スティムボートが甥っ子という触れ込みから同じ名を名乗ったことで、その名を耳にしたことがあるファンもいると思います。まさしくボクは名前こそ知ってはいたものの、それまで気にも留めたことのないレスラーでした。

 

マシーンズ、そうくるとはなぁ~。本当、このときは一本取られた感じでした。

 

しかしその後、気になることが頭の中を右往左往し始めます。

 

ヒロ・マツダがジャーマン・スープレックス・ホールドを日本人で初めて使い、その相手がサム・スティムボートだったのは認識できたのですが、はたしてマツダはどういう経緯でジャーマン・スープレックス・ホールドを使い始め、現役時代はどれくらい、何回くらい使用したことがあったのか?という点でした。

 

そこでマツダがジャーマン・スープレックス・ホールドを使った記録を調べてみると、日本マットにおいては驚くべきことに1966年6月の日本プロレスのゴールデン・シリーズに凱旋帰国したときと1967年1月の国際プロレス旗揚げ時の東京プロレスとの提携興行のときの、合わせてわずか3回しか使っていなかったようなのです。

 

ゴッチ直伝にして日本人初という強烈なインパクトがあったが故に、その意識が優先してしまい完全に「ジャーマン・スープレックス・ホールド=マツダの得意技」という印象を持っていましたが、実はほとんど使われることがなかった貴重な技だったのです。

 

カール・ゴッチへ直接弟子入りし、数々の技や技術を受け継いだことから「ストロングスタイルの発祥」とも言われるヒロ・マツダのプロレス。しかしその経緯は・・・?マツダはどこでゴッチを知り、どうやってジャーマン・スープレックス・ホールドを知り、そして体得し披露したのか?そこに至るまでにはどんなドラマがあったのか?そして、そこから見えてくるストロングスタイルの真の姿とは?

 

ということで今回はヒロ・マツダを辿り、ストロングスタイルの象徴を探す旅に行ってみることにしましょう。

 

まずはヒロ・マツダのプロフィールを基に遡っていってみます。ヒロ・マツダ、本名は小島泰弘(こじま やすひろ)。1937年7月22日、神奈川県横浜市鶴見区出身。高校時代は野球部で活躍。卒業後の1957年に日本プロレスへ入門と・・・一般的なプロフィールではこの記述がほとんどなんですが、マツダの生年月日だと高校卒業年は1956年3月になるので1956年入門の可能性もあるのではないか?と思い調べてみました。すると、こちらの本にプロレスへ入門する経緯から海外へ行くきっかけ、そしてジャーマン・スープレックス・ホールドを使う経緯などが語られている貴重なインタビューが載っていたので、ご紹介しながら進めていくことにします。

 

1995年10月発行 プロレス王国特別編集アントニオ猪木 SUPER BOOK! “燃える闘魂"デビュー35周年記念号のヒロ・マツダ インタビュー「ヒロ・マツダが明かすストロング・スタイルの夜明け」より抜粋(原文まま)

 

マツダ:ちょうど高校1年の時にプロレスが入ってきたんですよ('54年=昭和29年)、 シャープ兄弟が来日して。その頃はプロ野球の選手を夢見て、東京の荏原高校で甲子園を目指していたんですが、練習を終えて街頭テレビを観ていたら「この世界に飛び込めば海外に出られるな」と思ったんですよ。貧困な日本にいて、海外にも憧れていた訳です。

 

一番最初のきっかけは力道山だったわけですが、しかし力道山やプロレスへの憧れより"海外へ出られる"というのが先に来ていたところがポイントではないかなと思います。もちろん時代背景という理由もあったかもしれませんが、初めてプロレスを見たとき海外という発想に至ったこのインスピレーションが、マツダのその後のプロレス人生をすでに暗示していたのではないかなとボクには思えました。

 

続いてはプロレスへの入門です。

 

王国:日本プロレス入門までの経緯はどうだったのですか。

 

マツダ:高校を3月に卒業して、力道山の自宅が池が谷(東京都)にあって「入門させて欲しい」と訪ねたら、田中米太郎さん(力道山の付き人)が玄関に出てきて当時、私は182センチで88キロくらいの体格でね「じゃ、中に入れ」って。そうしたらヨッちゃん(百田義浩=引退)、ミッちゃん(百田光雄=現全日プロ)もいて、食事時でね、テーブルの上に焼肉が山盛りで「こんなに日本は経済的に苦しいのに、プロレスはたいしたモノだな」って実感して。そうして力道山が「プロレスに入りたいのか、野球経験があるんなら明日、府中で野球の試合があるから来い」という返事。プロレスラー対府中刑務所の刑務員の試合で「お前、どこ守ってるんだ、ピッチャーか、じゃ投げろ」って。実際に投げたら1-0で勝って「じゃ明日から練習に来い」って、プロレスラーになったんですよ。

 

王国:それは珍しいケースですね。

 

マツダ:それが'56年6月で、吉原功(後に国際プロ代表)さん、芳の里(後に日本プロ代表)さんに練習をつけてもらってね。 吉原さんに毎日、アマチュア(レスリング)を教えてもらいました。夏に初めて巡業に付いて、リングを組む手伝いをして、その頃は相撲から入って来た人が多くて若手は一人きり。

 

志願は自宅へ出向き直接行い、そこで言われたのが野球の試合に出場しろという言葉。その後、入門許可を受けたということになります。つまり、マツダのプロレス入りは1957年ではなく1956年6月ということになります。

 

しかしながらその入門許可までの経緯は本当に珍しいものです。「こいつはすぐやめてしまうだろう。でも野球あるから明日だけ来させるか」くらいだったのか?それとも一目見た瞬間、若きマツダに何かピンと来るものがあったのか?力道山の意思はもはや謎ですが、まさしく類稀なるプロレス入りとなったわけですね。

 

かくして正式に日本プロレスへ入門したマツダ。ここから長いプロレス人生を歩むことになるわけですが、相撲出身者が多かった当時の日本プロレスにレスリング出身である吉原功がいて、のちにマツダのプロレスの基となるレスリングテクニックが身に付けられたこと・・・これは大きかったと思います。このあたりには運命を感じられずにはいられませんね。

 

そして今だ謎が多いマツダのデビュー戦に関しては以下が話されています。

 

王国:日本プロ時代に試合はされているのですか?

 

マツダ:'57年に福井で比嘉敏一さん(力士出身)と初めて試合に出て、座間空軍基地で羅生門綱五郎さん(身長203センチ)、横浜のフライヤージムでユセフ・トルコさんと合計3試合こなしています。

 

王国:確か日本プロに在籍中、沖縄で空手家の挑戦を受けたこともあると聞きました。

 

マツダ:そんなことも知ってるの(笑)。'57年1月に那覇で巡業が3日間あって、こっちもバリバリだった頃ね。それで空手家が力道山に挑戦してきて、野球場かな、1万人は入るんだよ。それで「小島、お前いって来い」と言われて「ハイ、いって来ます」。 それでリングの上で皆が観てる間に30秒くらいで決めちゃって控室に帰ってきたら、いきなり力道山からビンタもらった。(下記の※に続く)

 

1957年に試合を行ったというマツダが王国からの問いにより「1月に沖縄で空手家の挑戦を受けた」と答えています。インタビュー内容から、1957年内に初戦をしたのはまちがいなさそうですが、ならば年の始め、この1月の空手家との戦いが比嘉敏一、羅生門綱五郎、ユセフ・トルコらの試合より早く行われていたことになると思われます。

 

ということで1957年1月に沖縄で行われた日本プロレスの興行を調べてみたところ1957年1月4日から2月1日まで「力道山渡米壮行プロレス大会」というシリーズが行われていました。おそらくこの最中にマツダと空手家との試合が行われていたと思われます。しかしながら、ときは沖縄が返還される15年も前の話。正確な日時、場所、対戦相手は調べる術がなくわかりませんでした。

 

かくして、この試合がデビュー戦になる可能性が高いですが、言ってみれば飛び入りとの異種格闘技のようなこの戦いを正規のプロレスデビュー戦と見てよいのかどうか・・・インタビューで問われるまで語っていないところを見ると、マツダ自身も正式なデビュー戦とは認識していないようにも見受けられます。

 

しかし、こういった試合に出れる状態であったということはデビュー戦は間近だったと考えられなくもありません。なのでここは「1月中には正式なデビュー戦が行われた」と解釈することにしましょう。

 

ということでここまでをまとめると「1956年3月入門。1957年1月デビュー」ということでマツダはプロレスラーとしてスタートを切った、ということになります。

 

が・・・しかしその後、マツダは日本プロレスから退団してしまいます。インタビュー中にもあるようにマツダはこの空手家との試合に見事勝利するわけですが、試合後に待っていたのは力道山からの祝福ではなく強烈なビンタでした。一体、何があったのでしょうか?

 

マツダ:(上記※からの続き)誉めてもらえると思ったのに。「お前、なぜもっと時間かけてやらないんだ」って、それでカッときて飛び掛かろうかなと思った時に、豊登さんがバッと俺をつかまえて「関取(力道山)は嬉しいんだけど口には出さないんだ」って。そういうことが矛盾してるでしょ。そういうのが重なって、段々イヤになってきたんですね。それで自分の道は自分で開こうと・・・。

 

マツダ:(前略)力道山がこう言う訳。「プロレスラーになるには何か過去の名前がなければダメだよ。お前は、相撲に行け」って。18歳になったばかりで、二所ノ関部屋に力道山の後輩の若ノ花 (先代の大相撲協会理事長)がいるから「明日にでも行け」って言うんだけど、上下関係の相撲の制度が合わないからね。だから「自分でやっていきますから」と辞めてしまった訳。

 

マツダが日本プロレスを退団した理由を調べると"当時の日本プロレスの体質、体制が合わなかった"というのが多く出てきますが、まさしくそれが根本だったようです。それにしても力道山のいう"過去の名前がなければダメ"という、いわゆるバックボーンですね。確かにあった方が箔が付くかもしれませんが、これを後付けでやろうというのは現在では考えられないですね。力道山ならではの発想だったんだと思います。

 

さて、このようなことが原因で早々日本プロレスから退団するわけですが、しかし海外に出るのはこの退団直後の1957年ではなく1960年です。この3年の空白の期間、マツダはどうしていたのでしょうか?

 

王国:引き留めはなかったのですか。 

 

マツダ:芳の里さんも阿部修(後の国際プロ・レフェリー)さんも自宅に来たけど「一回、一人で海外へ出る」覚悟でした。それでコツコツ、練習して。吉原さんに「アマチュアを習って来い」って、早稲田大のアマレス部の道場や、笹原正三さん(56年メルボルン五輪金メダリスト)の所(中央大)に3カ月くらいいたり、空手もやって3年かかったね、海外出るまでに。

 

普通であれば「やめたヤツのことなんか」と日本プロレス側から相手にされないところですが、早くからマツダの才能に気がついていた吉原とは繋がっておりレスリングの練習ができる環境下だったことがわかります。加え自主的なトレーニング、そして空手も習うなど、この時期のマツダは海外でやるための下地を着々と作っていたのだと考えられます。もちろん海外遠征への資金を貯めるための苦労もあったでしょう。マツダにとっては大変な時期だったことが感じられますね。

 

こうしてマツダは1960年4月に海外へと渡ります。しかし行き先はアメリカではなく南米ペルーでした。マツダはなぜ、この地に遠征したのでしょうか?

 

マツダ:'60年4月13日に日本を出てペルーに。製薬会社の薬草栽培場の管理の仕事で、祖父が米国のコロンビア大学を卒業してペルーに渡っていたんです。会ったこともないのに飛行機で東京、バンクーバー、メキシコシティ、ペルーのリマに行ってね。それで祖父が迎えにきていて、到着する前に現地のプロモーターと契約してくれていました。

 

ペルーにいた祖父。この祖父の存在が、お金もなく言葉もわからないマツダにとって"渡りに船"となったわけですね。しかし日本人にとっては未知のプロレス領域だったペルー。そのペルーではどのような感じでプロレスを行っていたのでしょうか?

 

マツダ:メキシコとかスペインの選手が多くて、ルチャリブレみたいな感じもありました。現地では「ルチャドールでは初のハポネス(日本人)だ」って言うんでプロモーターも「もう切符がない」って驚いたくらいに会場に客が入ってた。(後略)

 

マツダ:リングネームはコヒマ(スペイン

語でJI〟は〝ヒ〟と発音)で現地には 7万人くらい日本人移民はいたけど「こんな大きな日本人はいない」って。 自分は素足で、これまでシューズつけたことはないよ。日本人は柔術、空手、柔道とかで靴をはかないイメージがあるから崩さないように。トランクスは黒とか青とか。試合では、まだロープに飛んだりの技術はなかったけど、ルチャリブレではなくキャッチと呼ばれていたね。(後略)

 

なんとこの地で後年までマツダを象徴することになる裸足に黒のショートタイツのスタイルが生まれていたんですね。しかも・・・今でこそ馴染みのある日本人ルチャドールですが、その祖がまさかヒロ・マツダだったとは驚きしかありません。

 

そして当時「ルチャリブレではなくキャッチと呼ばれていた」という、この話にも驚きです。我々プロレスファンがルチャリブレと聞くと「飛び技」と変換してしまうのはもはやサガですが、独特のストレッチ技が数多く存在していることも忘れてはならないことです。そのストレッチ技の発祥にはヨーロッパ説もあり、実のところ未だ不明な点が多く残っているのです。この時代にルチャリブレがキャッチと呼ばれていたなら、もしかするとヨーロッパから何かしらが伝わってきていた可能性があるのかもしれません。これは今後、歴史を紐解くヒントになっていくのではと思えました。

 

さて、当時のペルー、メキシコでマツダはオリエンタルな魅力で人気を集めていたため、試合は場所を移動しては連続で組まれる感じだったようです。しかし、故に肩を脱臼しながらも出場し続けなければならない状況にして、また言葉も文化もわからない未開の地はとにかく治安が悪く、反日感情も相当なものだったらしく大変だったようです。

 

その後、ペルー、メキシコを経て翌1961年8月。マツダはいよいよアメリカ本土のテキサス州ヒューストンへと渡って行きます。

 

ここではコジマ・サイトー、グレート・コジマを名乗ったとされ、テキサス州、カンザス州、ミズーリ州をデューク・ケオムカをタッグパートナーにサーキット。この頃にソラキチ・マツダ、マティ・マツダら日本人プロレスラーの先駆者に肖ってヒロ・マツダに改名したとされています。

 

こうして活躍の場をアメリカに移したマツダは1962年12月末からフロリダに転戦しシングル、タッグとタイトルを手にし本土で名を上げていきます。

 

1963年2月19日、フロリダ州タンパでエディ・グラハムからNWA南部ヘビー級(フロリダ版)を奪取した若き日のマツダ

 

NWA世界タッグ(フロリダ版)はデューク・ケオムカと組んで1963年6月6日フロリダ州ジャクソンビル、同年9月5日フロリダ州ジャクソンビル、1964年3月10日フロリダ州タンパ、1965年3月22日フロリダ州タンパと4度獲得している(画像は1966年凱旋時のもの)

 

そしてフロリダに転戦し11ヶ月が過ぎた1963年11月。ここでカール・ゴッチに師事し、3ヶ月間特訓。 ジャーマン・スープレックス・ホールドを習得した、ということなんですね。

 

でも、マツダはどのような考えでゴッチに弟子入りすることを決めたのでしょうか?

 

王国:カール・ゴッチ氏に弟子入りした理由は何だったのですか。

 

マツダ:彼が一番、決め技が凄いっていう評判だったから。それを覚えたくて弟子入りに行ったんだよ。それで試合を休んで3カ月間、やったんですよ。

 

王国:アメリカン・プロレスを実践していたのに、どうして対極的なゴッチ氏のレスリングを習いに行ったんですか。

 

マツダ:プロレスラーだってレスリング知らなければレスラーって言われないんじゃないですか。そのために行ったんだ。侍が腕を磨くのは、自分より強い人とやって巧くなるのと一緒だよ。

 

王国:すぐに入門を許されたのですか。

 

マツダ:行く前にね、ジャン・トリースという人がいてね。ニューヨーク州バッファローで'57、'58年にマーク・ルーインと組んでいたんだけど、彼に紹介してもらった。私が'63年11月、一番最初にカール・ゴッチに入門したんだ。

 

真似ごとでは意味がない。やるならば魅了された本家カール・ゴッチの下で基本からしっかりと。そして本物の技術を・・・まさに毒を食らわば皿まで。これがマツダの思いだったわけですね。

 

そして、あとに語っている「プロレスラーだってレスリング知らなければレスラーって言われない」「自分より強い人とやって巧くなる」にも、その思考が現れているのがわかります。日米問わず多くの門下生に伝えられていったマツダのプロレスに対する信念。これが「ストロングスタイルの原点」なのだと思いました。

 

ところでマツダのゴッチへの入門。この仲介役、紹介したとされる「ジャン・トリース」なる人物ですが、これは詳細がまったく出てこず。わかりませんでした。

 

一体誰なのか?この重要人物をなんとか明確にしたく調べてみます。ヒントは「ニューヨーク州バッファローで'57、'58年にマーク・ルーインと組んでいた」という点。となると、おそらくこれはジャン・トリースではなく「ドン・カーチス」というレスラーのことなのではないかなと推測されます。

 

ドン・カーチスは1950年代から1960年代にかけアメリカ東部地区で活躍。マーク・ルーインとタッグ戦線で活躍し、1958年7月と1958年12月にWWWF以前の東部地区タイトルであったNWA・USタッグ王座に君臨。このタイトルを巡りエディ・グラハム、ジェリー・グラハムとの抗争で人気を集め、カードは各地でドル箱だったといいます。正直なところ名を耳にしたことのないレスラーだったのですが、大学時代はレスリングで活躍し、その当時に大学に訪問したルー・テーズとエキシビション・マッチでスパーリングしたところエド・ストラングラー・ルイスにその実力を好評価されスカウトされてプロレス入りしたという本格派な一面も持ったレスラーだったそうです。そんなカーチスならゴッチと繋がっていてもなんら不思議はありません。マツダとゴッチの運命の橋渡しをしたのは、このレスラーでまちがいないと思います。

 

こうしてゴッチと出会い、いよいよジャーマン・スープレックス・ホールド体得となるのですが、そこはあのカール・ゴッチ。一筋縄ではいかず・・・そのトレーニングは相当に厳しかったようです。

 

王国:やはり技術的に驚きはありましたか。

 

マツダ:それは凄いよ。スタミナあるし朝、3、4時間走ったり彼を肩にかついだり、両足を取られ手で歩いたり。昼食後、納屋にリングがあって外は雪が降ってるんだよ、あそこは。そこでみっちり教えてもらった。関節技は足、ダブルリストロック、アンクルホールド、トーホールドと。今、木戸選手が使ったのを目にすると「あれも習った」って懐しい気分になりますよ。 ジャーマンスープレックスはゴッチさんから「ブリッジさえ完璧に出来れば簡単だ」と言われて、毎日、アゴがマットにつくくらいに練習しました。「後は相手を掴んで後ろに投げるだけ」と指導されました。

 

朝、3、4時間走る・・・たとえば朝の7時から走り出したとすると11時まで走っていることになります。そこから、加えて肩車で歩き、手押し車で進み、それが終わって昼食後に道場練習となっていたのでしょう。もちろんインタビューでのそれはかいつまんでの話。実際にはプッシュアップやスクワット、相手を持ち上げながら行うトレーニングなど、スパーリングに至るまでには他にもいろいろやったはずです。

 

そして「ブリッジさえ完璧に出来れば簡単だ」「後は相手を掴んで後ろに投げるだけ」と言われたジャーマン・スープレックス・ホールド。言葉こそ少ないですが、おそらく相当過酷なブリッジを行っていたのではと思われます。

 

こうしてゴッチの指導を受けた翌年1964年の7月11日。マツダはフロリダ州タンパでダニー・ホッジを破りNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得します。

 

マツダ:(中略)'62年は、12月28日にフロリダ州ジャクソンビルに行ってジェイ・ストロンボーって、インディアン・キャラクターのイタリア人選手と試合してね。'63年は、フロリダで試合し続けて11月かな、ゴッチさんの所に習いに行ったんだ。それで'64年、ジョージア州アトランタでやったりしながら、8月にダニー・ホッジがタンパに来た時にタイトル獲った訳。オクラホマに行って1カ月間やったけど「初めてホッジがベルト獲られた」ってお客さんが驚いた。彼は英雄だから。アマボクシングのゴールデングローブ・チャンピオンでアマレスのNCAAで負けなしだったからね。

 

ダニー・ホッジを破りNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得したマツダ

(尚、インタビューでは8月と語っているが正式記録は7月11日となっている。

詳細は以下のとおり。

 

1964年7月11日 フロリダ州タンパ ノース・アルバニースポーツオーデトリアム 

NWA世界ジュニア・ヘビー級選手権試合

60分3本勝負

ダニー・ホッジvsヒロ・マツダ

①ホッジ(21分 バナナスプレッド)マツダ

②マツダ(8分 ジャーマン・スープレックス・ホールド)ホッジ

③マツダ(7分 体固め)ホッジ

試合時間の秒数は不明。

この試合がマツダのジャーマン・スープレックス・ホールド初公開とされる。

※2023年8月11日 追加更新)

 

厳しいゴッチ・トレーニングが実を結び強豪ホッジを下してのタイトル奪取となったわけですが、このホッジとのタイトル戦あたりを境に初めてマツダの口からジャーマン・スープレックス・ホールドを使ったことがわる言葉が出てきます。

 

王国:当時の試合内容は?

 

マツダ:試合は今の1本勝負ではなく3本で、60分とか90分引分けもやったよ。そんなこと週4回くらいやっていたよ。相手が一緒だから接近したファイトになってしまう。お客さんの観たい試合が同じだった訳で、試合は今の日本のクリーンな内容みたいで、決め技はジャーマンスープレックスだった。

 

マツダが言うとおり強さがあってこそのプロレスラーですが、得てして観客、ファンを魅了し続けるのもまたプロレスラー。マツダのインタビューにあるように同じ対戦相手と長丁場を連戦でとなると懸念されてくるのはやはりマンネリ化・・・つまり、内容勝負も求められたのではないかなと思います。強さを見せつつ、技術、技で新鮮でインパクトのある試合を展開しファンを引きつけなければならない。その必要が感じられます。

 

そして、そんな中での必殺技です。ダニー・ホッジやルー・テーズ・・・他にも、当時アメリカにいた多くの強豪たちと渡り合うには「これまで誰も使ったことのない強力かつ決定的なフィニッシュ・ホールドしかない」と、この秘密兵器へ辿り着いて行ったのではないかなと考えられます。マツダにとってジャーマン・スープレックス・ホールドは自身の強さとプロレスの象徴であったんですね。

 

こうしてジャーマン・スープレックス・ホールドの使い手となり、ダニー・ホッジを下し実力を示したマツダは1964年3月より海外武者修行に出ていたアントニオ猪木と1965年11月末より合流。タッグチームとして活躍します。

 

タッグ結成後は快進撃を続け、翌1966年1月15日、テネシー州メンフィスでNWA世界タッグ(テネシー・アラバマ版)を獲得した

 

1966年2月3日、テネシー州チャタヌーガ・スポーツアリーナでマリオ・ミラノ、レン・ロシーと対戦するマツダとカンジ・イノキ

 

同じ日本人にして出身地も神奈川県横浜市鶴見区という同郷のマツダと猪木はタイトル戦以外でもタッグを組んで数多く試合に出場していました。プロレスの試合はもちろん、強さの追求、練習好きと、プロレスに関し多くの共通点を持つマツダと猪木。そんなふたりを象徴する写真が残っています。

 

テネシーにて、スパーリングを行う猪木とマツダ

 

こうしてよく一緒に練習をしていたというマツダと猪木。その激しさは周囲のレスラーが驚き引いてしまうほどだったといいます。そのシーンにある一節が思い出されます。

 

木村光一さんのブログ

 

日々是闘い。〈木村光一の独白〉

 

より

 

アントニオ猪木が語る“レジェンドレスラー”(4) ヒロ・マツダ

 

猪木「俺はその頃、沖識名さんから教わった技をベースに、割と天性の素質に頼ったレスリングをしてたんです。力もバネもあったんで、日本プロレスでは誰にもスパーリングで負けなかった。でも、マツダさんと練習してみたら、すでに彼はゴッチの門下生だったこともあって、俺が知らないテクニックをいっぱい持ってたんです

 

そして猪木の海外武者修行時代で唯一、マツダが猪木とのタッグにてジャーマン・スープレックス・ホールドを使用した試合結果があります。

 

1965年12月16日

テネシー州チャタヌーガスポーツアリーナ

タッグマッチ 60分3本勝負

カンジイノキ、ヒロ・マツダ vs ビリー・ウィックス、レン・ロシー

①マツダ(11分11秒 ジャーマン・スープレックス・ホールド)ウィックス

②イノキ組(試合放棄) ウィックス組

 

マツダと猪木は1965年11月末に合流していますが、その合流間もない12月に、猪木はそのシーンを目の当たりにしているのです。

 

「これがカール・ゴッチの下で修行したマツダさんの実力か・・・よし、スパーリングで技術を引き出して吸収し、さらに強くなってやるぞ!!」

 

と猪木は思ったのかもしれません。

 

一方のマツダも

 

「若くしてこれだけ強く練習熱心なのか・・・でも、おれにもアメリカでひとりでやってきたというプライドがあるんだ。まだまだ!!」

 

という、ライバルとして仲間として「負けられない」という思いがあったのかもしれません。そんなライバル意識からの切磋琢磨も、またストロングスタイルの源。マツダと猪木にエナジーを与えていったのかもしれません。

 

こうして1966年。日本人初公開となる「ジャーマン・スープレックス・ホールド元年」をいよいよ迎えます。

 

2へ続きます。