「リンカーンは英雄であると同時に独裁者であり、暴君」の如く南北戦争期の南部白人の目には映ったかもしれない。奴隷解放という偉業を成遂げた英雄を自国民が暗殺する等、世界に恥を曝すような行為だと思わないのかと、21世紀人の自分は思うが、暗殺犯ジョン・ウィルクス・ブースからしたら「自分達こそが正義漢」であると妄信していたのであろう。
リンカーンによる奴隷解放宣言は、あくまでも法的身分(建前上)の奴隷解放であり、決して解放奴隷(元奴隷)の黒人達が白人と名実共に対等な地位を獲得した訳ではない。しかし、あの宣言は米国にとって英国からの独立達成以来の第二革命と呼んでも過言ではないくらいの大いなる前進であり、自由白人男子全員に選挙権を付与したジャクソニアン・デモクラシーを超える偉業であったと思う。
そもそも当時の米国南部は白人の中でも1%未満に過ぎない大農園主(100人以上の奴隷所有者)が富も政治権力も独占していた極めて不公平な社会であり、奴隷達だけでなく、大農園主以外の自由白人達も相当不満を抱いていたと思われる。しかも、自由白人の75~80%が奴隷を所有していなかった(出来なかった)事を考えると、南部白人全員が人権侵害者であったと断罪するのは少し不憫な気もする。
南北戦争、そして奴隷解放宣言に至るまでの北部自由白人達のある種、偽善的現実主義、御都合主義が残念であると感じもするが、その御陰で米国は奴隷解放という歴史的偉業を達成出来たと思うと、結果オーライではあるが良かったと言える。「奴隷制という身分制度は人権侵害であるので廃止すべきだ」という道徳的理由ではなく、「工業中心の北部」対「農業中心の南部」という産業構造の違い、経済的理由から北部が奴隷制度に反対していた事を考えると、「人間は所詮その程度のものだ」と落胆してしまいそうになるが、しかし、だからこそ、その綺麗事ではない工場の煙突から排出される排気ガスに塗れた実利という人参を目指して北部自由白人達が突き進んだからこそ、米国は奴隷解放、南部吸収(再統一)を成遂げ、次なる一手、列強の一国としての世界進出への布石を打てたのであろう。
リンカーンも、大統領選挙当選時は「奴隷制拡大に反対」していただけであり、奴隷制即時廃止は主張していなかったし、人種の平等を唱えてすらいなかった。しかし、彼が独裁的であったとはいえ、断固とした態度で合衆国を離脱した南部諸州によって建国されたアメリカ連合国と戦争し、戦中に奴隷解放宣言し、最終的にはアメリカ連合国を倒して米国再統一を成遂げた事は、米国史だけでなく、世界史的にも大いなる成功と言えるであろう。
勿論、奴隷解放宣言及び合衆国(北軍)の勝利で元奴隷の黒人達が即時に自由白人達と同じ人権、公民権を獲得した訳ではないし、それを獲得する為の闘争が本格的に勃発するのはその1世紀後であり、そして今なお、完全に平等な社会は訪れていない。しかし、リンカーンの決断、そして北部自由白人達が自分達の雇用及び経済的成功を守る為に命懸けで戦い抜いた事によって、結果的に米国は真の自由及び平等へ向って着実に一歩前進出来たのである。
ただ、黒人の人権よりも南北白人の和解が優先され、結果として米国がクランの暴力に屈し、南部がその後1世紀近くに渡って黒人にとってのデストピアのままであった史実は残念であった。南部の白人達は「支配階級のままでいたい」という我が儘な欲望だけでなく、現実に元奴隷であった黒人達による暴力的報復を恐れていただろうし、実際、黒人が白人に暴力を振う事件があった事も事実であろうが、当時の南部白人達が主張していた権利は、我々21世紀人からみればあまりにも自分勝手過ぎるものであり、到底看過出来るものではない。元々、白人とはいえ先祖は欧州で百姓、場合によっては農奴であった者達の子孫が米国の白人のマジョリティーであり、寧ろ支配される側の人間であった者達の子孫が、新天地である米国に支配階級として君臨し、先住民の土地を奪って居留地へ追出し、黒人を奴隷として購入して酷使し、かつて自分達の先祖を支配していた欧州の貴族及び地主達と同じ事を新世界である米州でも再現していた事はとても皮肉であったし、南北戦争後も南部白人達は引き続きその社会的地位を未来永劫死守しようと企んだ辺りが人として醜いし、呆れると言わざるをえない。そして奴隷解放から約1世紀後に発生した公民権運動によっても白人と黒人が完全に平等になる事はなく、コロナ禍の現在の米国においても、黒人達はブラック・ライヴズ・マターを掲げて運動を起さざるをえない状況にある辺りからも、米国が完全に平等な社会を目指す事は相変わらず困難であり、それを達成出来る可能性は限りなくゼロに近いと言わざるをえないと感じる。しかし、リンカーンによる奴隷解放宣言以降、少しずつではあるが、その達成が困難な目標に向かって米国社会は前進し続けて来たのだなと、改めて思う。その歩みが止まらない事を、米国の同盟国の国民として願う。