アリキリ

アリキリ

働くことをテーマにした小説ブログです

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「お疲れさまです。お先に失礼します」

その日もいつものように深々と頭を下げ、カジさんは仕事を終えてお店を出た。これからが、アリーの本来の勤務シフトだ。

ほどなくして、オクダが出勤してきた。オクダは、アリーが22時であがった後、翌朝までのシフトに入る。アリーと同じで、ゴールデンウィークはめいっぱいシフトを入れたらしい。

「ゴールデンウィーク、働くね~」アリーに気さくに声を掛けるオクダは、当たり前だが、秋葉原で見かけた時とはまるっきりの別人だ。あの日、アリーがメイド姿のオクダを見たことを、オクダはおそらく知らない。アリーも、それを伝えようとは思わなかった。

「オクダさんだって朝まですよね?疲れませんか?」

「午前中はがっつり寝てるしね。カジさんに比べたら大したことないよ。あの人なんか、いつ寝てるんだかわかんないよ」

「え?いつもの時間にあがっていきましたけど・・・」思わず怪訝な表情になってアリーが答える。

「あの人、ここをあがってからも仕事してるんだよ。道路の交通整理してるところを見たし、他にも警備の仕事とかやってるみたい」

朝から夕方までコンビニで働いて、終わってから夜の仕事をしていたのでは、たしかに寝る時間なんてないだろう。アリーにはにわかに信じがたかった。

「こないだ、オーナーとカジさんが話してるの聞いちゃってさ」普段はそれほど口数が多くないオクダが、珍しく饒舌になっていた。カジさんが、なるべくたくさんシフトに入れてもらえるようにオーナーに頼み込んでいる場にたまたま居合わせたのだという。リーチイン冷蔵庫の裏側からペットボトルを補充しようとバックヤードに回ったところで二人が話していて、二人はオクダに気付かなかったそうだ。結果的に立ち聞きするみたいになってしまって、オクダ自身も気まずい思いをしながらも、カジさんの事情が聞こえてしまった。

カジさんは飲食店の経営に失敗して借金を作ったらしい。その返済のため、コンビニで毎日のように働き、夜はまた別の仕事をして、昼夜となく働いていたのだ。

キリヤマが、自分が店頭に立たずカジさんに任せているのは、オーナーの優しさなのかもしれない。田舎育ちで性善説が頭の中を支配しているアリーは、ぼんやりとそんな風に想像した。

「大変なんですね」アリーはオクダの話を一通り聞き終えて、ようやくひと言絞り出した。正直、アリーにはそれがどれほど大変なことなのか想像もつかなくて、哀れみとも同情ともつかないが、ただひたむきに働くカジさんを応援しなくてはいけない気がした

 

22時になって、アリーが帰途につく。家に着くまでの途中にある大きな4車線道路の1車線を封鎖した工事をしている。カジさんが働く姿を実際に見てみたいわけではなかったのだが、無意識にアリーの視線はカジさんを探していた。煌々と照らされた夜間の工事現場ではあったが、昼の太陽の光には遠く及ばず、工事現場で働く人たちの顔は黒く潰れてわからなかった。その現場にカジさんはいたのかもしれないし、いなかったのかもしれない。でも、それでいいのだ。アリーが知る必要もないことだ。明日からも今まで通りにカジさんと深々と頭を下げて視察をしよう。脳裏にオクダのメイド姿を浮かべながら、アリーは小さな決意を胸に自転車のペダルを強く踏み込んだ。

 

アリーが大学に通い始めてほぼひと月が経ち、ようやく学生としての生活リズムもわかってきた。ゴールデンウィークを目前に、昼間は少し汗ばむくらいに暖かな日が続いていた。周囲には、連休に向けて何やら楽しげにプランを練る同級生も多かったが、アリーはどこにも行く宛もなかったし、といって、実家に帰るにはまだ早過ぎる気がした。帰省は夏休みにしようと考え、その分、ゴールデンウィークはバイトのシフトを入れてもらうようにした。幸いというべきかどうかはビミョーなところだが、“主婦チーム”であるカトウさんとカオルさんはゴールデンウィークの家族サービスで昼のシフトが空き気味だったので、アリーのゴールデンウィークはほぼアルバイト漬けの日程となったのだった。

 

当然のように、“仮想マネージャー”であるカジさんもゴールデンウィークは常勤でシフトに入っており、アリーがカジさんと共に過ごす時間は激増した。

「おはようございます」カジさんはいつも変わらず、遥かに年下のアリーに恭しく頭を垂れる。初めのうちは、年上から頭を下げられる経験がなかったアリーも恐縮してしまってドギマギしていたものだが、最近は、アリー自身も同じように深々と頭を下げて挨拶することに慣れてきた。不思議なもので、慣れてしまうとそうしないことが不自然に思えて、大学でも教授とすれ違う時に深々と頭を下げてしまい、いつも一緒にいるヒトミから怪訝そうに見られていることに気付き、思わず顔が紅潮するのだった。

アリーから見たカジさんの仕事ぶりは、もはや正社員だった。商品補充のタイミング、ピーク時のお客様捌き、バックヤードでの商品仕分け、どれをとってもエリアマネージャーである、あの“ダース・ベイダー”の領域だった。

「カジさんはすごいですね」ある時、アリーは思わず声を掛けた。何がすごいのかを説明するのも面倒なくらい、アリーは感心していた。

「僕が一番長い時間、ここで働いていますからね。まあ、当然と言えば当然ですよ」いつもと同じように、アリーに対しても敬語で話すことを忘れずに、カジさんはこともなげに答える。

昼のシフト期間中、アリーはたった一度だけ、カジさんの気が抜けた場面を目にした。サボっていたという意味ではない。バックヤードで発注端末に向かっていた時、ほんの一瞬、アリーがふとバックヤードに目を向けた一瞬だけ、カジさんがうたた寝しているのが視界に入った。アリー自身、意外過ぎて、視線を戻した時にはいつも通りに黙々と仕事をこなすカジさんがいて、気付いたのが奇跡と言ってもいいくらいの僅かな時間だった。アリーは特ダネ映像でも撮ったみたいな、どこか得意気な、それでいて人には言えない秘密を持ったような気分になって、独りほくそ笑んだ。

アルバイト従業員の中で一番勤務時間が長いのはカジさんだ。他の従業員は皆、主婦だったり学生だったりで他にやることがあるわけだが、カジさんはアルバイトとはいえ、この仕事が“本業”だから自ら率先してシフトに入っていた。平日はほぼ常勤体制で朝から夕方まで勤務し、他のスタッフの都合がつかなかったり急なシフト変更があれば全てカジさんがカバーしている。そうなれば当然、カジさんはコンビニのマネージャー的なスタッフで、オーナーからも信頼を得た一目置かれる存在になっていた。

カジさんは三十歳前後と思しき風貌で、身なりもキチンとしていて礼儀も正しい。接客からバックヤードに至るまで、あらゆる仕事ぶりからみても、本来なら正規雇用で仕事をしていておかしくない。コンビニのユニフォームではなくスーツを着ていればいっぱしのビジネスマンに見えるに違いなかった。学生のアリーから見れば、カジさんは立派に自立した社会人だ。

 

カジさんのお陰で、キリヤマは開業直後のオーナーとしてはかなり負担が軽くなっていた。フツー、開業直後のコンビニエンスストアといえば、人件費の削減や慣れない店舗運営でオーナーがもっとも多忙な時期のはずなのだが、店舗マネージャー同然となったカジさんが、オーナーがやるべき多くの仕事を担うようになってしまったからである。店舗にいる時間はキリヤマよりもカジさんの方が長くなっていて、キリヤマは売れ筋商品の情報もPOSデータよりもカジさんからの報告で知るようになり、本部への商品注文もカジさんが行うようになっていた。

 

当然、アリーが直接会う機会も、圧倒的にカジさんの方が多くなった。日中のシフトで働くカジさんは、アリーが出勤してから2時間後くらいに退勤するのがいつものスケジュールである。朝の7時から出勤しているのだから、その時点で12時間働いていることになる。

「お疲れさまです。お先に失礼します」カジさんはいつでも、誰にでも礼儀正しい。学生のアリーに対しても、言われたこちらが恐縮してしまうくらいに深々と頭を下げて挨拶をする。ちょっと余所余所しい感じもしたが、年長者なりの気配りにも感じられるところがアリーには好印象だった。そんな、過剰にも思えるカジさんの礼節を重んじる姿勢は少なからず良い影響があって、最初はぶっきらぼうな挨拶しかしなかったコウさんとサイさんも、いつの間にかカジさんと同じように挨拶をするようになった。

「お疲れさまでした」アリーもカジさんに応えるように、深々と頭を下げてカジさんを見送った。

 

 

コウさんもサイさんも、アリーが思っていた以上に実直で勤勉だった。失礼な話だが、内心、アリーは中国人が二人も同じ職場にいることが不安だったのだ。それは、ネットやテレビでよく報道される中国人観光客の酷いマナーや振舞いばかりがアリーの耳に入ってきていたからである。上京前まで過ごしていた片田舎では外国人を見かける機会もなかったので、中国人は皆そういった人種なのだと思っていた。

奇しくも、そんなネガティブな想像はアリーの杞憂に終わった。コウさんもサイさんも、二人だけの中国語会話の時を除けば極めて日本人的で、日本語の勉強とでも考えているのか、よく話しかけられた。サイさんは日本に来る前から日本語を勉強していて教科書みたいに丁寧な日本語を話したし、コウさんも日本語学校に通っている成果が上がっているようで日に日に上達していた。コウさんが時々、子供が急に大人びたことを言うようになったみたいに、突然、いっぱしの日本人っぽいことを言うのを聞いて、アリーは面映ゆいような気分になるのだった。

 

“アキバ”に一緒に出掛けて以来、大学が休みの日は、アリーはヒトミと過ごすことが多くなっていた。同じ「地方出身者」、とりわけ東北出身であることが、同じ時間を共有するのには気が楽だった。その日は、ヒトミの「スポーツレクリエーション施設に行きたい」という」リクエストに応えて、その施設に足をのばした。といっても、たまたま、アリーの家からさほど遠くない距離にその施設があり、前日からヒトミが泊まりにきて朝の散歩気分である。前日の夜は、アリーもヒトミも家族や友人とよく行った話でひとしきり盛り上がった。およそ、ありとあらゆるインドアスポーツが楽しめる施設は、地方の片田舎では一大レジャーで誰もが行く場所なのだ。ボウリング、ビリヤード、ダーツ、何ならカラオケだってある。

朝っぱらからボウリングに興じ、思いの外、盛り上がって3ゲームをこなしてしまい重くなった腕で、まるで鉄アレイでも握っているかのように感じるペットボトルの清涼飲料水を片手にしばし休憩をとる。トイレに行っていたヒトミが、何やらすごいものを見つけたような笑みを湛えて戻ってきた。「ねえねえ、あそこ、すごい盛り上げってるよ!」指さした方向は卓球場だった。

言われて目を向けた卓球場は、なるほど、そこだけがスポーツイベントでも開催されているような熱気と歓声に満ちている。見物人で人だかりができて、アリーの位置からは何をやっているのか見えなかった。「私たちも行こうよ」ヒトミが手を引いて促す。

人だかりに近づくにつれ、卓球のラリー音が耳に届く。テレビのオリンピック中継で聴いた、卵が割れるような、力強く乾いた打撃音が耳に心地良く響いた。ポイントが決まったのだろう、レクリエーション施設には不釣合いな熱気を帯びた歓声が上がる。

群衆の輪の中ではダブルスのゲームが行われていた。二つの見知った顔があった。高校生と思しき男子ペアと試合をしていたのはコウさんとサイさんだった。高校生といっても、ラリー音を聞く限り本格的な卓球部レベルに違いなかった。「9-1」中央に立つ仲間の高校生が声を発した。勝ってしているのはコウさんとサイさんのようである。サイさんがサーブの動作に入る。「プロみたい」アリーは思った。構えを見ただけで相当の上級者であることは明らかで、高校生ペアは完全に委縮している。“カツーン”と乾いた音が響いて高校生サイドのコートに着地したボールは磁石に吸い寄せられるパチンコ玉みたいに急激に曲がった。高校生は目一杯に腕を伸ばし、やっとの思いで相手コートに返ったボールを、今度はコウさんが容赦なく叩きつける。“パーンッ”という破裂音と同時に高校生側にボールが返る。高校生ペアはボールに触れることもできなかった。人だかりからまた「ワーッ」と歓声が上がり、コウさんとサイさんはハイタッチで声を上げる。意外だったのは、ゲームをリードしているのはコウさんのようで、コンビニエンスストアでは聞いたことのない、大きく力強い声でサイさんに指示をしているようだったことだ。サーブがコウさんに替わった最後のポイントも、まるで直前のポイントのリプレイを見ているかのような同じ展開でゲームが終わり、観衆たちからは、そこだけがオリンピックか世界大会に思えるような歓声と拍手が起きた。

 

観衆に混ざって拍手をするアリーをコウさんが見つけて勝ち誇ったように手を振る。同時にサイさんもアリーを見つけて照れくさそうな顔をした。「あの人たちすごいね~」無邪気に笑って拍手をするヒトミに、アリーは少し誇らしげに「あの人たち、私と一緒のバイト仲間なんだ」と答える。アリーはそれまで考えたこともなかった、“同胞”という意味をほんの少しだけわかった気がしていた。

アリーとコウさんは、オペトレの日、休憩時間の時に少しだけ言葉を交わした。コウさんはアルバイトをしながら、日本語学校に通っているのだという。日本人の言葉はわかるようだが、まだ、話すのにはぎこちなさが残る。その分、といったら失礼かもしれないが、コウさんの働きぶりは、遅れてオペトレにやってきた時の悪びれない態度が嘘みたいに一生懸命で実直に映った。

サイさんと話をしたのは、店がオープンしてから十日程経ったシフト交代の時である。サイさんの方から流暢な日本語で話しかけてきた。「サイと申します。オープンの日は大変でしたね」ネームプレートを見なければ日本人と思ってしまうほど自然な日本語だった。アリーにまで敬語で自己紹介してきたことで、逆に外国人っぽさを醸し出していた。「あ、アリムラと申します。宜しくお願いします」つられて、アリーも同年代には使い慣れない敬語で答えた。サイさんは、二年前から日本の大学に留学しているのだという。「大学を卒業したら日本の企業で働きたいのです」教科書の例文みたいなことを言うな、とアリーは思った。

 

コウさんとサイさんが二人だけの時は、いつも中国語で会話している。キリヤマは、二人の会話の内容がわからないので快くは思っていないようで、一度だけ注意したことがあるそうだが、相変わらず中国語で会話しているので黙認していた。

同じ中国人といっても、コウさんとサイさんはどこか違っていた。大陸の人たちにはよくあることだが、サイさんは大きな声で速射砲のごとくまくし立てる。コウさんは、「本当に中国の人?」というくらいに、それをおとなしく聞いていることの方が多かった。アリーが上京してきて、街中でよく見かける中国人同士の会話は「喧嘩!?」と間違えるくらいに騒がしく言い合う姿ばかりだったので、二人の様子、というよりもコウさんのどちらかというと日本人っぽい態度は意外だった。

シフト交代のタイミングで客足の少なかった日、不思議に思って、アリーはコウさんに訊ねた。「コウさんは中国の方でも物静かなほうなんですか?」アリーとしては目一杯に気を遣ったつもりの遠回しな言い方だった。「ホントハ、ソウデモナイデス」意外な言葉が返ってきた。

「サイサンハ、マチノヒトダカラ」街の人?都市部の出身ということか?「マチノヒト、ユウフク。デモ、イナカノヒト、ユウフクジャナイ」都市部の出身者はお金持ちで、農村部の出身者は貧困と言いたいようだ。

「サイサン、ユウフクナノデ、ニホンノダイガクカヨエル。ワタシ、ダイガクニハイケテナイ」たどたどしくも、コウさんは珍しく自分から続けた。コウさんの覚束ない日本語をアリーは頭の中で翻訳した。「資本主義国家ばりに経済成長が著しい都市部では、年に何度も日本へ観光目的で来るような富裕層が多く、サイさんは親が学費を払ってくれて日本に留学してきている。一方で、農村部ではいまだに共産主義が色濃く残り、経済的にまだまだ苦しい。コウさんは何とか渡航費用を工面して日本に来て、アルバイトをしながら日本語学校に通っている。日本に来ても、そのヒエラルキーの順列は変わることがなく、農村部の貧困層は、都市部の富裕層には逆らえない」アリーはようやく理解した。中国には経済的優劣を前提とした厳然たるヒエラルキーが存在するということを。