オクダはアリーよりも2学年上の学生で、同年代ということもあって身近な存在だった。といっても、アリーのシフトは夕方5時か6時に入って夜の10時、オクダは大抵そのあとの深夜帯シフトだから、それほど多くの言葉を交わすわけではない。ただ、同じ学生なのに、アリーの同級生男子たちにはない、物静かで落ち着いた雰囲気がそう思わせたのかもしれない。細身で背の高い体形で、細いフレームの眼鏡をかけた佇まいはいかにも都会育ちの青年に見えた。
アリーは自分のシフトが終わると、帰り支度を整えてから店内をひと回りして何かしら買って帰ることが多い。別に、店やキリヤマに気を遣ってそうしているわけではない。一番近いスーパーは、帰り道からほんの少し逸れているので寄り道するのが面倒だった。夕飯用にお弁当だったり、お風呂上がりのアイスクリームだったり、帰り道に歩きながら頬張るあんまんの時もあれば、翌朝の朝食用のパンの時もあった。買うものや目的はその日によって違った。
オクダはいつも、アリーが買ったものをレジに通しながら言葉をかける。「あ、これ、オレも好きだよ」とか「新商品じゃん。今度、オレも買ってみよっかな」とかの愛想良い言葉の時もあれば、「こんな時間にそんなもの食べたら太るよ」なんて、シニカルな笑みを浮かべながらわざとデリカシーに欠ける言葉を吐く時もあった。そんな、微かに乙女心を引っ掻くような台詞も、オクダの笑った口元からわずかに覗く欠けた前歯の隙間が、オクダ本人の隙を垣間見るようでアリーを和ませるのだった。
学校生活にも日常の生活にも慣れ始めた4月半ばの日曜日、アリーは秋葉原にいた。宮城から上京したという同じ学部の同級生となったヒトミから「秋葉原に行ってみたいの!一緒に行って」と懇願されたからだ。ヒトミは、所謂、“二次元派”というやつで、アニメや漫画のキャラクターに恋する乙女だった。アリーは特にそういう趣向ではないのだが、趣味趣向は別として、同じ東北出身ということで仲良くなった。それに、今どきは、“二次元派”も市民権を得ているので、そうそう毛嫌いされるようなものでもない。アリーも“サブカルの聖地”などと言われる秋葉原という場所に一度は行ってみたいと思っていた。
秋葉原は大学への通学路線のちょうど中間地点にあった。かつて、『電気街』と呼ばれた秋葉原も、今は、「サブカルの聖地」、そして「人気アイドルグループを生み出した街」としての方が通りがよい。休日となれば、大通りは外国人観光客とアリーたちのような地方出身者で溢れかえっている。ひと昔前、メディアでも大々的に取り上げられていた「メイド喫茶」文化はすっかり日常の景色に溶け込んだ風景で、当たり前のように、通りのあちこちにメイド服を着てビラ配りをする少女たちがいた。アリーがどことなく他人事のように、それほど歳も変わらないメイド服の少女たちを眺めるのとは対象的に、ヒトミは興奮気味だった。いつか、コミケという大イベントにも参加したいと言っていたが、アリーは「それには誘われませんように…」と心の中で祈った。
ヒトミに誘われるまま、有名(らしい)なメイド喫茶に入り「お嬢様」などと首筋がくすぐったくなる呼び方をされる羞恥プレイみたいな時間を過ごし、二人は再び大通りに戻ってきた。「秋葉原」を「アキバ」などと馴れ馴れしく口にできる程に街の雰囲気に馴染んだころ、アリーは一人のメイドに目を留めた。ビラ配りをしている、周囲よりも大柄なそのメイドは体格以上にその美貌で目立っていた。にこやかな笑顔でビラを配る美貌のメイドを、アリーは不思議な親近感を持って凝視する。「オクダさん!?」過去の想い出がフラッシュバックしたみたいに、美貌のメイドの横顔にオクダの横顔がオーバーラップした。ウィッグを着けているのか、明るめに赤みがかったロングヘアだが、美貌のメイクの奥にオクダの面影が残像のように重なり合っていた。似ている?本人?アリーの視界の中で、メイドの周囲がホワイトアウトしてゆく。
長い間見つめていたのか、ほんの短い時間だったのか、もはやアリーにはわからない時間が経過する中、一瞬、目が合ったような気がした。美貌の大柄なメイドは、眉ひとつ動かすことなく笑顔のままでビラ配りを続けたが、アリーは見逃さなかった。笑った口元に前歯の欠けた隙間が見えた。驚愕とも落胆とも言えない複雑な気持ちがアリーの中で渦巻いていた。否定したいわけでもなければ拒絶したいわけでもない。どこか、できれば受け入れたい気持ちと、見てはいけないものを見た気持ちが綯交ぜになりながら、徐々にアリーの視界の吹雪が静まって景色に色が戻った。
「これが東京なんだ」「ここは“アキバ”なんだ」アリーは自分に言いきかせるように妙な言い訳を思い浮かべ、ヒトミのいる方に視線を移す。無邪気にアキバの風景をスマホで撮影するヒトミを眺めながら、「“コミケ”には行かないよ」と、アリーは独り堅く誓った。