先日映画「おくりびと」の原作の「納棺夫日記」を書かれた青木新門先生のお話を聴きに行って参りました。

色々なお話の中から~

先生は3000体のご遺体の納棺をなさったご経験からのお話で

人は死んだ時、どんな人もとてもいい顔をしているそうです。死後2時間くらいで硬直かま始まりますが、その前の死んだ瞬間というのは、いい顔をしているそうです。特に子どもと動物はそうなのだそうです。動物や子どもは、死に対する概念や恐怖が無く死というものを受け入れるので、いい顔をしていると仰っていました。このお話を聞いた時、大変救われた気が致しました。
東日本大震災で沢山の人が無念の死を迎えた。その時さぞ苦しかったのではないかと思うと、いたたまれないのですが、死を迎えた瞬間、どんな死であってもいい顔をしているというお話は、大震災で、また不慮の事故で、ご家族、ご親戚を亡くした方々にとって、少し気持ちのやり処ができるのではないでしょうか。

そして富山のあるおばあさんのお話をなさいました。その方が最期に言われたことは、「ようやく仏様の元へ行ける。有り難いことです。」だったそうです。

このごろは核家族化が進みましたが、家族や親戚が迎える死の瞬間に立ち会うかどうかで、生に対する理解が違ってくるというお話もお聞き致しました。

あの神戸の酒鬼薔薇聖斗と名乗った少年は、自分の大好きなおばあさんが死んだ時、立ち会えず、ずっと死とはどういうものかを考え、虫を殺したら分かるかもしれないと思って虫を殺し、分からない、猫を殺したら分かるかもしれないと思って猫を殺し、ついには人間の子どもを殺してしまったという経緯だったそうです。

関根榮一作詩、伊藤幹翁作曲の「たちあおい」という歌は、ある夏に親戚みんな、子ども達もおじいちゃんを見送る風景を歌っています。こんな風景の中で、自然と子ども達は命を学んでいたのかもしれません。

新門先生のお話を聞いて

死ぬということはどういうことなのか、そこを大人もきちっと考え、子どもに教育しないと、いじめも虐待も無くならない、ましてや体罰があるうちは、無くならないでしょう。ただいじめはいけないと言うだけではだめで、命の教育は、今待った無しの状況にあります。それを誰がやるのかではなく、人みなが抱える問題なのだと思いました。