瞑想で最も強調される徳目の1つが「非判断」です。
「判断のない観察」
「ただ眺める」
人は生きてきた経験をもとに瞬間瞬間、判断をしています。
これはほぼ自動にわき起こる思考によってなされ、
一方では、生を維持する原動力にもなっています。
たまに「判断のない観察」を
本人の都合に合わせてあちこちに勝手に適用し、
本人の言動を合理化することもあります。
例えば、音楽教育の現場で
指導者は学生の誤った発声法や姿勢などを直してあげようとしますが、
「なぜ私の方法を悪く見るのか。判断せずにそのまま見てくれ」
というなら、教育の意味はないでしょう。
一部の人は、自分が性に関して自由だと言って、セクハラや変態行為をしたりもします。
本人は自由であるとしても、これらの行為が強制的に行われて、誰かを傷つけたりするなら、正しいことではないのは当然なことでしょう。
修行での「判断のない観察」というのは、
「感情的な判断、自分の固定観念から始まる判断に気をつけなさい」という意味です。
最も恐ろしい固定観念の中に宗教と理念があります。
今日、特定の宗教、理念的に行われる無分別な殺生と暴行の問題は深刻です。
私が信じているからと言って、他人に信仰を強要したり、抑圧して侵害する行為は正しくありません。
人は瞬間瞬間、思考と判断をしています。
踏切信号の前で赤信号なのか青信号なのか判断して、
社会では、本人が所属する集団で決められた規律に照らし合わせて判断して行動します。
人間の最も発達した脳の領域である大脳新皮質の活動の結果です。
しかし、ある条件や観念にとらわれると、その条件、観念の奴隷になったりもします。
非判断というのは、無分別なのではありません。
私たちは男女である以前に人であり、
クリスチャン、仏教徒である以前に同じ人間であり、
黒人、白人である以前に同じ生命体としての人間です。
「判断のない観察」とは、
「人間本来の純粋な意識で見なさい」という意味です。
ありのまま見る時、世界の全ての存在と現象を受け入れることができます。
美しさというのは、美しいから美しいのではなく、存在自体が美しいということです。