このところ、発達障害ということばが、よくでてくるようになりました。
前の職場でも、こどもの発達障害について、研修会などで勉強することがよくありました。
研究や論文やそんなことが進んで、きっと、あれこれわかってきていろんな名前がつけられてきてるんでしょうね。
脳の問題?
心の問題?
環境の問題?
外国では、障害ではなく特性と、だいぶ早くからいっているそうですが、私の住んでいる地域では、まだ、障害だから、、障害だから、、と、何かと発達障害を出してくる人たちがいました。確かに脳の問題で研究がなされてきているのかもしれない。
だけど、それは、足し算にはならないのか。
悪いことをした時に、全部そこに行きついてないかとか。
まわりも、全部そのせいにしてないか、とか。
それを中心に周りが少し暴力的なんじゃないかと、思うことがあるのです。
子供の場合だったら、少しやんちゃでも、意地悪でも、みんなと同じことができなくても、空気を読まないとか、人の気持ちを考えられないとか。
そういうふうな診断がついたら、仕方ないねで終わるまわりの大人。
たしかに、その子がいると授業にならない。
とか
危険が伴う
とか
いろいろあると思いますが。
おとなの発達障害に関してはどうなんだろう
私は、
急に行動的になる
とか、
しゃべりすぎる
とか、
いろいろなことをどんどん思いついて唐突に行動する
とか、
怒りっぽくなる
とか、
人とわらうポイントが違う
そんなような障害にあてはまるかも、しれない
とか言われたことがありました。
それでよく、悩んだのだけど、それって、しょうがいなのか?でも、社会生活に障害が起きたり人に迷惑をかけたら障害かも
いきついたその結果。
自分は、どうとらえるか
ということ
人によって考えはさまざまだけど。
自分はどうするのか。
人がその発達障害だから
人のことなら、「こわっ」「やばっ」と
悪口で終わるのか
自分もそういうとこあるわ、、と、振り返るのか
そこから、何か足し算になる考えは生まれないのだろうか
人のせいにする
それが一番暴力的とわたしは思います
楽なのかもしれないけど。
灰谷健次郎さんの天の瞳の中で、暴力的な生徒が問題を起こして学校も保護者もその生徒を問題視して騒動になっていた中、ひとりの女子生徒が手をあげて発言した場面がありましたね。
「彼のためにわたしたちは、何ができますか?」
と。
どんな時でも
今の自分に何ができるか、それを考えて行動していける人になりたい
優しさの足し算は、
ひとりじゃなくてみんなで考えられたら、足し算だってきっとかけ算になる