ゴーン事件,ゴーン氏がようやく保釈されたと思った途端,今更別の容疑で再逮捕。普通なら追起訴で済ませるのであろうが,検察側はあくまで人質司法のやり方,身柄を取って拘束することによる圧力で罪を認めさせるー自白を獲ようとする手法を取り続けている。

細かい事件の分析については,郷原氏が的確な分析(ゴーン氏「オマーン・ルート」特別背任に“重大な疑問”)を続けておられるので,それに付け足すところはないが,検察のリークというか意向を汲んだ報道が続くのは本当にひどい。たとえば、産経はゴーン氏の妻がフランスに出国したことを「ゴーン容疑者妻聴取めぐり攻防 「身の危険」に特捜部「やましいからでは」」という見出しで報じている。検察幹部が「無罪を主張するなら、妻はそれを証明する話や資料を出せるはずなのに、なぜ弁護人はそう助言しないのか」と言ったという話をそのまま報じたものだ。

しかし、検察や警察が、身内を逮捕するぞ、身内に累が及ぶぞといって被疑者を脅し、自白を導くのは古くからある手法。冤罪を生む原因の一つだ。長期間の拘束を受け、過酷な取り調べを受け続けている被疑者は、身内にまで同じことをされてはたまらないと考え、捜査側の言いなりの供述をしてしまうのだ。15年前に鹿児島で起きた志布志事件は、無から有を創造するかのように某警部の主導の元、大量の逮捕者・取調者を出し、無理な自白の強要が行われた事件であった。その中のある女性は、「容疑を認めなければお前の家族も全員まとめて逮捕してやるぞ」と脅されたという。この事件は、結局13名が起訴されたが一審で無罪となりそのまま確定した。

 

また、ゴーン氏の再逮捕について付言すれば、最も悪質と考えるのは、検察が裁判資料を押収したこと。双方が平等な立場に立ち、公正に行われるべき裁判前に、一方当事者が相手側の資料を強制的に押収するなどあって良いはずもない。弁護人の弘中氏が「暴挙」と批判したがまさにそのとおり、暴挙というしかない。

日本では、裁判や逮捕などの捜査段階を含む司法手続における適正手続の尊重に関する意識が薄いが、ここが曲げられてしまうと恣意的な司法が横行する。犯罪を犯した嫌疑のある者ではなく、警察や検察が「捕まえたいと思った者」を逮捕・拘留し、不公正なやり方で有罪としていくことが出来るようになってしまう。専制的支配者が思った通りに人を投獄できる専制国家と同じことになってしまうのだ。だからこそヨーロッパやアメリカでは、手続き的側面の公正さを大事にしているのである。

日本の刑事司法の後進性を世界に示し続けているゴーン事件。結論が出た際に、司法は、報道のあり方は、どう変わるのか変わらないのか。最近、田中角栄首相の再評価とロッキード裁判に対する疑問も目立つようになっているが、当時、検察が絶対正義であるかのように田中氏批判の最先鋒を務めたのが、朝日新聞を始めとするマスメディアだった。その頃と図式は全く変わっていない。