【徳川幕府】水野忠邦と印旛沼干拓工事 | 嶽正義 チバを盛り上げる!

◆水野忠邦と印旛沼干拓工事

 

 

■天保の堀割工事の概要

 

徳川幕府は1603年から1868年までの265年間続きますが、天保年間になると権威も揺らいできます。

天保11年(1840年)11月、時は十二代将軍家慶公の御代。

時の老中である水野越前守忠邦は天保の改革を推し進めます。

この天保の改革こそが徳川幕府の威信を懸けた最後の改革でした。

 

天明4年(1784年)の天明の堀割工事の中断以後も利根川では洪水が頻発。

またこの間にも天保の大飢饉が発生するなど、全国的に自然災害が発生をしていました。

幕府の台所事情は再び悪化し、年貢米収入も激減するなど財政状況は非常に厳しくなります。

 

そして何より大きかったのが異国船の存在。

幕府は鎖国政策以来、異国船からの脅威を感じずに145年間過ごしてきました。

しかしその間、世界に目を向けると世の流れは激変。

天保11年6月28日には英国と清国との間で阿片戦争が勃発します。

天保8年にはモリソン号事件が発生するなど、日本の鎖国政策自体が最早限界に達しつつありました。

幕府としては異国船の存在も無視できず、内外両面の政策を打ち出す必要性に迫られます。

 

その内政の一策として幕府は3度目の印旛沼干拓工事に着手し始めます。

天保11年11月、水野は御勘定組頭五味与三郎と御勘定楢原謙十郎を印旛沼へ検知に向かわせます。

主に天明期に工事した区間の調査が主目的でしたが、報告は決して芳しいものではありませんでした。

しかし幕府としては工事を進めたい、進めなければいけない”内部事情”がありました。

それが上記にも示したように異国船の存在です。

外国の軍艦に東京湾を封鎖された際の水路の確保が幕府にとっては何より重要でした。

 

天保13年、幕府は篠田籐四郎に横戸村の高台と花島村の花島観音下の古掘割の試し掘をさせました。

篠田からの答申は以下の通り。

 

花島観音下は「ケトウ土(化灯、化泥)」と呼ばれる腐食土から成り立ち、工事は極めて困難。

 

しかし水野は篠田よりこう答申されても工事開始を五大名に命じます。

それが沼津藩庄内藩鳥取藩貝淵藩秋月藩でした。

 

天保の堀割工事は享保・天明期の工事とは意味合いがやや異なります。

洪水氾濫の防止や新田開発は従来通りでしたが、もう一つ水運の整備に重点を置く事が主眼でした。

かくして幕府主導の下、各藩の御手伝普請として天保14年(1843年)に工事が始まります。

 

工事は幕府主導で各藩から延べ人数100万人もの人夫が駆り出されました。

大量の資金(※多くは各藩の自己資金)も使われ、工事自体は約3ヶ月で全行程の9割を終える事に成功。

今回こそ成功かと思われますが、唯一花島観音下の工事が難航を極めます。

先の篠田からの報告通り、軟弱泥に鳥取藩の人夫達は大苦戦。

労働条件が劣悪だった事もあって病人が続出し、死者まで出す事になりました。

しかもまたまた災難だったのは水野自身が同年9月13日に老中職を罷免された事。

9月23日に工事の中止命令が出され、弘化元年(1844年)には工事が完全に止まってしまいました。

 

こうして享保・天明・天保の掘出工事は不運も重なって失敗に終わってしまいます。

最終的な完成は昭和44年(1969年)ですから如何に難工事であったのか窺い知る事ができます。