【徳川幕府】田沼意次と印旛沼干拓工事 | 嶽正義 チバを盛り上げる!

◆田沼意次と印旛沼干拓工事

 

 

■天明の堀割工事の概要

 

享保9年(1724年)に行われた享保の堀割工事は失敗に終わりました。

これは『村普請』による資金力不足が影響しています。

 

安永9年(1780年)、享保の堀割工事開始より56年後の8月に再び印旛沼干拓工事に動きが出ます。

印旛郡草深新田と千葉郡島田村の名主香取平左衛門と信田治郎兵衛より幕府へ目論見書が進達。

今回は『町普請』として工事を請け負わせてほしいという願いでした。

 

天明元年(1781年)、時は10代将軍徳川家治公の治世下にあります。

その家治公の治世下で権力を握っていたのが老中の田沼主殿頭意次でした。

田沼は目論見書を見ると、直ぐに印旛沼へ幕史による実地検分を行わせます。

結果、天明の堀割工事の決断に踏み切りますが、開始は翌天明2年からと少し時間を置きました。

 

これには深い理由があったものと推察されます。

その一番の理由は堀割工事を幕府の威信にかけても絶対に成功させるぞという強い意気込みです。

田沼は浅草と大坂の商人である長谷川新五郎と、天王寺屋藤八郎等から資金提供を受けています。

天明の工事に掛かった費用は約60,000両と言われていますから、享保の工事の約6倍。

幕府の『直轄工事』として始めた事からも、田沼の堀割工事への強い意気込みが感じられます。

ところがそんな天明の堀割工事にも思わぬ不運が・・・。

 

第一の不運は工事開始から一年後(天明3年)に発生をした浅間山の大噴火

この大噴火により、流出した火山灰によって利根川の河床が上昇します。

したがって残念ながらも工事の中断を余儀なくされました。

その後工事は一年後の天明4年(1784年)10月に再開されます。

しかし工事も終盤に差し掛かった天明6年(1786年)の7月に再び大災害が利根川一帯を襲います。

 

7月12日~17日まで断続的に降り注いだ大雨が利根川の大氾濫を招きます。

この大雨は江戸幕府開府以来最大級の大雨で、江戸市中にも大きな被害をもたらします。

せっかく完成しかけた布鎌新田のマケ俵口の締切り工事や掘割など開削工事をも悉く破壊。

工事自体が振り出しに戻るという大きな被害を受けます。

これが第二の不運です。

それでも堀割工事に不屈の闘志を燃やす田沼は復旧の目途が立てば工事を再開させるつもりでした。

ところが第三の不運が8月20日に起きます。

 

十代将軍家治公が江戸城内にて亡くなります。

家治公の死を受けて24日は工事自体が中止。

27日には田沼自身が老中職を失脚するという憂き目にあって完全に工事は頓挫してしまいます。

こうして天明の堀割工事も天災と中央の政治による混乱によって未完成のまま終わってしまいました。